第85話 両手いっぱいの、唯一無二の宝物
「えっと……栞? お礼って、本当にこれでよかったの?」
俺の膝の上に、横向きにちょこんと乗っかった栞。首にぎゅっと抱きついてきて、俺は両手で栞の身体を支えている。
料理の手ほどきのお礼にと、栞が要求してきたのがこれだったわけだが──
少しだけ、拍子抜けした気分だった。
もちろん、この密着感はやばい。また理性がゴリゴリ削られていくのが、自分でもわかる。
けれど、今日の栞の要求にしては可愛らしいというか、なんというか。もっと俺の予想もできないようなことを言うかと思っていた。
それでも、栞は心底満足そうに言う。
「これでいいっていうか、これがよかったのっ。だってね、前してもらった時は、私、寝ちゃってたんだもん」
「……寝ちゃってたって──あっ」
栞の言う、前してもらった時。
なんとなく、心当たりがある。
座っているか、立っているかという違いはあれど、今の俺たちの体勢はまさしくそれだった。
「思い出した? あの後ね、継実さんから送ってもらった写真見てすっごく悔しかったの。せっかくお姫様抱っこしてもらったのに、堪能できなかったぁって」
「それならそうと、言ってくれたらよかったのに」
……まぁ、言われても照れくさくてしてあげられなかったかもしれないけど。
「……しょうがないでしょぉ、今まで忘れてたんだからぁっ! 涼は髪切ってすっごくかっこよくなっちゃうし、初めてキスだってしたし、登校日があったりもしてさぁ。だからね、やっとしてもらえたなぁって感じなの」
「そういうことなら──よっと!」
「ひゃわっ……!」
腕と脚に力を込めて立ち上がると、栞は短く悲鳴をあげた。やっぱり、栞の身体は思ったよりもずっと軽かった。
腕の中にある栞の重みが、たまらなく愛おしい。
前にした時よりも、日増しに栞が好きだという気持ちは大きくなっている。
この世で一番大切な女の子。
いや──一番なんて順位をつけることもできない、唯一無二の存在。
俺の両手は、栞でいっぱいだ。
栞さえいてくれたら、他になにも手に入らなくても構わないとさえ思ってしまう。
そんな宝物を両腕で受け止めているという実感を味わいながら、俺はゆっくりとリビングを歩き回る。そして、少しおどけた調子で栞に尋ねた。
「堪能できてますか、お姫様?」
「あの、その……えへ。なんかすごいね、これ。でも、ね……お姫様なんて言われたら恥ずかしいよぉ」
「あれ、気に入らなかった?」
「そういうわけじゃないけど……いつもみたいに呼んでくれる方が、好き、かも。それとね……無理して持ち上げてくれなくても、いいんだよ。たぶん、重いでしょ? ずっとしてたら、涼が疲れちゃうよ」
「そこまで重いってことはないけど……確かにずっとは無理、かな。なら──」
「うん。いいよ、座っても」
「そこは降ろしても、じゃないんだ?」
「それは無理だもん。涼からお礼してくれるって言ったんだよ?」
「そっか、そうだったね」
「だからね、ご飯が炊けるまではこのままなの」
「あはは、そりゃ頑張らないといけないなぁ。なんたって、俺のお姫様のお願いだからね」
「やんっ、またお姫様って言ったぁ。もーっ、涼のばかぁ」
こつんと額同士を触れ合わせて、意味もなく二人でくすくすと笑う。胸の奥がふわふわして、今なら永遠に栞を抱っこできそうだ。
でも──
せっかく栞が気遣ってくれたんだし。
「じゃあ、座る前に一つだけ──栞、好きだよ。カレー作るの教えてくれて、ありがと」
耳元でそっと囁いて、愛らしい額にキスを落とす。栞はくすぐったそうに身体を震わせて、じっと見上げてきた。
「……そこは唇に、じゃないんだ?」
「微妙に遠くてしにくかったんだよ……。そっちは、座ってからね」
「じゃあすぐ座ろっ! 今すぐっ! ほら、早く早くぅっ!」
「わわっ……?! そんな動いたら危ないって!」
栞は脚をバタバタさせて俺を急かす。
前言撤回。
栞を抱っこし続けるのは、なかなか大変かもしれない。
でも、栞がどんなに暴れようと──
絶対に落としたりなんてしない。
手放すなんてのは、もっとありえない。
栞が、俺を選び続けてくれる限りは。
慎重にソファに腰を下ろすと、栞は「んっ」と唇を突き出してきた。その姿に、思わず苦笑する。
……まったく栞は。積極的すぎるというかなんというか。
まぁでも、抗えない俺も俺か。
栞と初めてキスを交わしてからまだそれほど時間は経っていないはずなのに、もうすっかり馴染んだみたいに身体が勝手に動く。唇を触れ合わせると、じわりと幸福感が満ちた。
とはいえ、栞が一度のキスで満足してくれるわけもなく──
米が炊けるまでの間中ずっと、俺は栞の言いなりになっていた。




