第84話 特別個人授業と、炊き忘れた米
なんかもう、俺は栞の手の平の上でころころといいように転がされていた。
目が合うだけで笑ってくれて。
いくらでもよしよしと撫でてくれて。
時折、むぎゅっと胸に抱き寄せられると、息もできなくなる。そして水泳の息継ぎみたいに顔を上げると、待ってましたと言わんばかりにキスされた。
頭の芯まで蕩けるような、甘美で怠惰なひととき。しだいに時間の感覚まで失われて──
……あれ?
なんか大事なことを忘れてるような。
ふと気が付くと、リビングはオレンジ色の光に染まっていた。
つまり、今は夕方。夏の日の長さを考えれば、もうすぐ夜と言ってもいい時間になるわけで。
「……あっ」
思わず、小さく声がもれた。
俺はようやく、やるべきことを思い出した。
「……んー? どしたの、涼?」
栞がとろんとした瞳で見上げてくる。いつの間にか、俺は栞を膝枕していた。
栞は仰向けのまま手を伸ばして、俺の頬にぺたぺたと触れてきた。そして、ふにゃりと笑う。
その笑みは、俺を甘く幸せな泥沼に誘うみたいで。俺からも栞のふにふにの頬に触れて、もう一度だけキスを落とした。
「……んっ、ふぁ。涼、もっとぉ」
「いや、待ってよ栞。もうそろそろ夕飯の準備しないとじゃない?」
「……もうそんな時間なのぉ? 涼が起きてから、まだ十分くらいだと思ってたのにぃ」
……栞、時間の感覚バグりすぎだって。
まぁでも、二人でいると時間が一瞬で溶けるっていうのはわかる。しかも、その傾向は日に日に顕著になってきている。
「でもほら、カレー作るの教えてくれるって約束だったでしょ? 俺、栞と一緒に料理するの楽しみにしてたんだから」
「んふふっ、そっかそっかぁ。そんなに楽しみだったんだ? しょうがないなぁ、涼は」
のそりと起き上がった栞は、最後にぎゅっと俺に抱きついてから離れていった。
「本当はもうちょっとイチャイチャしてたかったけどぉ──先にご飯、作っちゃおっか」
「うん。俺も頑張るから……よろしくね?」
「はぁいっ、まかせてっ!」
嬉々として立ち上がった栞の後ろ姿を見ながら、盛大に息を吐く。
……あっぶなぁ。
完全に理性飛んでたわ。
ずっとあのままだったら──
そう思うと、少しだけ怖くなる。
いくら栞が許してくれても、限度というものがある。ギリギリで我に返った自分を褒めてあげたいところだ。
「涼ー、なにしてるのー? 早くおいでよぉ」
エプロンを身に着けながら、栞が呼ぶ。俺も名残を振り切るように立ち上がった。
「今行くって。料理初めてだから、緊張してただけだよ」
「そんなに緊張しなくても平気だよ。私がちゃーんと見ててあげるからね。ところで──」
栞の視線が俺の上から下、下から上へと移動した。
「ん? なに?」
「えっとね、涼ってエプロンとかあるのかなぁって思って。作るのカレーだし、跳ねたりするとお洋服汚れちゃうから」
「あー……確かに。さすがにエプロンなんて持ってないから、ちょっと着替えてくるよ」
俺は、買い物に行った時の服のままだった。上半身はともかく、ズボンは栞が選んでくれたもの。これは絶対に汚したくない。
「うん、その方がいいね。待ってるからいっといで」
「わかったよ。急いで行ってくるね」
自室に駆け上がり、部屋着のハーフパンツに履き替える。そうしてキッチンに戻ると、栞は冷蔵庫から使う食材を取り出しているところだった。
「おかえり、涼。それじゃあ、始めよっか」
「はい、お願いします」
かしこまって頭を下げてみたら、栞に笑われた。
「ふふっ、なぁにそれ?」
「いや、だってさ。教えを請う身としては、これくらいした方がいいかなって。なんなら先生って呼びたいくらいだよ」
栞先生の特別個別授業、なんて──
……悪くないなぁ。
むしろ、最高かもしれない。
けれど、栞は目を細めて俺の額をちょんと突いた。
「もーっ、先生はやめてっ! おふざけするなら一人で作っちゃうよ? 簡単と言っても、真面目にやらないと危ないんだからっ!」
「……ご、ごめん」
謝って、変に浮かれていた気持ちを引き締める。栞もすぐに表情を元に戻して、ふわりと笑った。
「ん、偉いね。じゃあ今度こそ始めるよ。まずはしっかり手を洗って──」
それが済むと、俺はいきなり包丁を握らされた。
「最初は玉ねぎ切ってみよっか。とりあえず、やってみてくれる? まずは縦に半分にしてね」
「……うん」
まな板の上には、皮が剥かれた玉ねぎが一つ。包丁をしっかり握って、刃を突き立ててる。
……ん?
なかなか切れないな。
なら、もう少し強く──
ずだんっ!
派手な音を立てて玉ねぎが真っ二つになった。確認のために横を見ると、栞は目をまんまるにして、口を半開きにしていた。
「りょ、涼っ?! そんな切り方したら危ないよっ?!」
「だ、ダメだった……?」
「……ごめんね、私がちゃんと説明しなかったせいだね。えっとね──」
栞が後ろから、包丁を持つ俺の手をそっと包み込んだ。
「ほらやっぱり、力が入りすぎだよ。もうちょっと優しく握ってみて?」
「……こう?」
「そうそう。でね、包丁は真っ直ぐ下に下ろすんじゃなくて、奥に滑らせるイメージだよ。この説明でわかるかな?」
「なんとなく、だけど。この次はどう切ったらいいの? もう一回やってみたい」
「涼は勉強熱心で偉いね。一回お手本見せるから、そしたらやってみよっか」
「うん、わかった」
俺の手から包丁を受け取ると、すっと音もなく玉ねぎを切ってみせた。その鮮やかな手つきに、思わず感嘆の息がもれる。
「おぉ……。すごっ」
「これくらい涼もすぐにできるようになるよ。飲み込みが早いの、私知ってるもん」
「……そうでもないと思うけど、とりあえずリベンジしてみるよ」
「うん、頑張って!」
栞に見守られて、再び包丁を取る。
見様見真似でぎこちなくはあったけれど、さっきよりスムーズにさくっと音を残して玉ねぎが切れた。
「上手上手っ! さすが涼だよ!」
自分のことのように、はしゃぐ栞。そして、子供を褒めるみたいに俺の頭を撫でた。
「栞の教え方がいいだけだって。ありがと、栞」
そう言いつつも、褒められれば嬉しくなる。
もっと褒めてほしくて、俺は次々に野菜を切っていった。
玉ねぎに続いて、人参とじゃがいも。それから、サラダ用にキュウリとトマトも切っていく。その間、栞は俺の手元を覗き込みながら、手でレタスをちぎっていた。
「すごいすごいっ! 涼、どんどん上手になってるよ!」
横で栞が楽しそうに笑うから、俺まで楽しくなってくる。
それから火加減を教わりながら食材を炒めて、煮込んでる間に少しだけイチャついて、ようやく部屋中にカレーの香りが充満し始めた頃──
「……あっ!」
栞が、なにかを思い出したみたいに声をあげた。
「どうしたの?」
「えっと、あのね……完成間際に言うのもなんだけど──ごめんね。お米、炊き忘れちゃった」
そう言ってぺろりと舌を出す栞が可愛くて、つい笑ってしまう。
まぁ、こういうのもご愛嬌ってことで。
「あはは、俺も忘れてたから同罪だよ。でも、ちょうどよかったかも。米が炊けるまで、ゆっくりしようよ。教えてくれたお礼も、したいからさ」
「お礼って──本当っ? なら、すぐ準備しちゃわなくっちゃっ! 涼は疲れただろうし、先に休んでていいよ!」
「そう? なら、お言葉に甘えようかな」
たぶん、俺の言葉は栞の耳に届いていなかったと思う。猛烈な勢いで、米を研ぎ始めてたから。
俺は先にソファに座って栞を待つ。
炊飯器をセットし終えた栞が全力ダイブしてきたのは、わずか数分後のことだった。




