第83話 崩したい、優しさの牙城
◆side栞◆
やがて、涼はすぅすぅと穏やかな寝息を立て始めた。私は、その無防備な寝顔をじっと見下ろす。
たまにピクリと震える睫毛。
つい触りたくなるほっぺ。
思わずキスしたくなる唇。
その全てが、愛おしくてたまらない。
そして、私はお母さんの言葉を思い出していた。
『悪いところが見えた時に、それでも一緒にい続けることを選択しようとするなら、どこかで折り合いをつけなきゃいけないでしょ? 涼くんと話し合うのか、栞が我慢するのか──とかね』
涼の悪いところなんて、一つも見えてこないよ……お母さん。
涼はいつだって、私を大切にしてくれる。
優しい言葉だけじゃなくて、行動でも示してくれる。
でも、その中で強いて一つだけあげるとするなら──
……優しすぎる、ところかな。
悪く言うと、ちょっぴり焦れったい。
好きになればなるほど、ますます涼がほしくなっちゃうの。自分の欲深さには気付いてる。でも、どうやっても止められないんだよ。
もっと涼からも甘えてほしい。
涼が求めてくれるなら、私、どんなことだってしてあげるのに。
今よりずっと深く、涼と繋がりたいんだもん。
心も。
身体も。
誰にも。
どうやっても。
引き離せないくらい、強く。
私をまるごと全部、涼のものにしてもらいたい。
……って、これはちょっと違うかな。
涼に、もらってほしいの。
私の全部をあげるから、涼に受け取ってほしい。
だから、この二泊三日のお泊りのどこかで──
必ず、その優しさの牙城を崩してあげる。
そうしないと、ずっともどかしいままだから。
大丈夫。
まだ時間はたくさんある。
そのための準備だって、ちゃんとしてきたつもりだし──もちろん、覚悟だって。
「……んぅ。しお、り」
不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
でも、その瞼が開くことはなかった。
「……もう、おどかさないでよ」
ふにふにと、ほっぺを突く。
むにゃむにゃと唇を動かして、それから涼はなにも言わなくなった。
私の夢、見てくれてるのかな?
だったらいいなぁ。
私はまた、涼の髪を撫でる。
さらり、さらりと髪が指の隙間をすり抜けるたび、私の胸は燃えるような熱を帯びていった。
***
気持ちよさそうな寝息が子守唄みたいで、私までうとうとしていたら──
「──はっ?!」
突然、涼が勢いよく起き上がった。
「わっ……! びっくりしたぁ……。おはよ、涼。そんなに慌てて飛び起きてどしたの? 怖い夢でも、見ちゃった?」
「……あ、いや。なんかさ、めちゃくちゃ熟睡しちゃってた気がして……。俺って、どれくらい寝てた?」
「うーんとね。二時間くらい、かなぁ」
体感だと、十五分くらいだけど。
「うわ、まじかぁ……。ごめん、栞。さすがに重かったよね?」
「んーん、全然。寝てる涼眺めてたら、あっという間だったよ」
「そんなわけないじゃん。足、痺れてない? 大丈夫?」
涼は私のふとももに視線を落として、眉を下げた。
……まったくもうっ!
すぐこうなんだからぁっ。
そういうの、涼のいいところだけど、今はダメだと思うの。だから、私は涼の頭を胸元に引き寄せた。
「わぷっ……! えっ、なに?! なにしてるの、栞?!」
「優しすぎる涼におしおきっ!」
これでもね、スタイルにはちょっと自信あるんだよ?
なのに涼ってば、あんまり触れようともしてくれないし……。
そんなの悔しくなっちゃうよ。寝ぼけたふりして、お胸に甘えにきたって、私は全然構わないのに。むしろ、ずっとこうしてあげたいって思ってたのに。
でも──
たぶん、ちゃんと言葉にしなかった私にも責任はあるんだろうね。
「なんでおしおきされてるの、俺?! というかこれ、おしおきになってなくない?!」
「じゃあ、ご褒美にしとく? まぁどっちでもいいけど──とにかく、そのままお話聞いて」
そう言うと、むにっと潰れた涼の顔が上下に動いて、私の胸元をふるふると揺すった。それが少しだけくすぐったくて、真っ赤になってる涼の顔に嬉しくなる。
「あのね。膝枕してあげるって言ったのは、私だよ。寝ちゃっていいよって言ったのも、私。だから、もし足が痺れたとしても自業自得なの。ほらっ、涼が謝らなきゃいけない理由なんて、どこにもないよ」
「そうは言っても──むぎゅっ?!」
私は涼の頭を強く抱きしめて、物理的に黙らせた。まだ私の胸の間でもごもご言ってるけど、そんなの聞いてあげる気はない。
どうせ、気遣いたっぷりの優しいこと言ってるに決まってるから。
「私ね──涼が私のお膝で寝てくれて、すごく嬉しかったの。それで涼もぐっすりお昼寝できたなら、なにも問題はないでしょ?」
「……むぐぅ」
やっと涼がおとなしくなった。
少しだけ力を緩めると、すき間から息がもれた。
「ぷはぁっ……! ちょっと栞、やりすぎだってば!」
「ふーんだっ! せっかくたくさん可愛いとこ見れて幸せだったのに、謝ってばっかの涼が悪いんだもーん。寝ちゃう前に、遠慮しなくていいって言ったのに!」
わざとらしく唇をとがらせてそっぽを向くと、涼は苦笑する。
「……本当に栞は。言いたいことはわかるけどさぁ──俺の気持ちだって、わかってくれるでしょ?」
「わかるよ。わかるから言ってるんだよ。でも、そうだなぁ……。じゃあ、こうしよっか」
「こうするって、どうするの?」
「それを今から言うのっ! でね、もし涼に罪悪感みたいなのがあるなら、その分、私のお願いを聞いてくれる──ってのはどうかなぁ?」
「……なんか聞くのが怖いけど、とりあえず言ってみてよ」
私は軽く、呼吸を整える。
緊張するし、勇気もいる。
でも、不思議と声は震えなかった。
「夜……ね。一緒に、寝よ? 涼のベッドで、二人で。いい、よね?」
腕の中で、涼が固まったのがわかった。
涼は油を差し忘れたロボットみたいな動きで顔を上げて、まんまるになった目で私を見る。
「……よ、夜って。二人でって──えぇっ?!」
「今日と、明日の夜のこと、だよ。私と、涼の二人で、同じベッドで寝たいの。せっかく二人きり、なんだもん。寝てる時も、離れたくないよ」
「……栞は、それでいいの?」
「うん、いい。というか……そうじゃないと、やだ」
だって、別々で寝るならお泊りしにきた意味ないもん。このために、お泊りを許してもらったようなものだもん。
瞬きもせず、涼の目をじっと見つめ返す。
逆に涼は、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
やがて、涼は深く息を吐いて、くたっと私にもたれかかってきた。
「はぁ……わかった、降参だよ」
「じゃあっ……!」
「うん。一緒に、寝ようね。というか、母さんに栞の寝床用意してもらうの忘れてたし……それに俺も、栞と離れたく、ないし」
今度は、私が忙しなく瞬きをする番だった。
……本当に?
本当に、こんなあっさりいいって言ってくれたの?
何度も何度も、涼の言葉を頭の中で反芻して──
間違いじゃないことを確かめて。
胸の奥が、歓喜で爆ぜた。
「……えへ、やったぁ。んふふっ、涼っ、りょーうっ! 今夜は寝かさないよー!」
「いやっ、待って! 寝るの?! 寝ないの?! どっちなの?!」
「そんなの私にもわかんないよっ。でも、眠れなさそうなのはわかるよ!」
「……まぁ、うん。それは確かに。──でさ……栞のお願い聞く代わりに、俺からも一つだけ、いいかな?」
そう言って、私の胸に顔を押し当てたまま、涼は恥ずかしそうに見上げてくる。
「うん、なぁに?」
「えっと……キス、してほしいなって。なんか膝枕してもらったせいかな……。起きて栞の顔見てから、ずっとしたかったっていうか。我慢……してたんだけど」
「あん、もうっ……! そんな可愛いこと言われたら──」
私が先に我慢できなくなっちゃう。
涼にも、もう我慢させないから。
……今、してあげるね。
私は、少しだけ泣きそうになってる涼の唇にキスを落とした。両頬をがっちり掴んで、何度も。まだ全壊とはいかないだろうけど、涼の強固な城壁に、ヒビを入れられた実感を噛みしめて。
ちゅっ、ちゅっ、とリップ音が響く。
音が鳴るように、涼の唇に吸い付く。
唇が触れ合うたびに、もっとって言うみたいに涼がしがみついてくる。
「……栞」
「うん、涼……」
息継ぎの合間に名前を呼び合って、またキスをする。エアコンが吐き出す冷たい空気を、私たちの熱で塗り替えるように。
そうして、二人きりの午後の時間は有意義に溶けていった。




