第82話 遠慮とわがままの、境界線
先に食べ終えた俺は、栞が食べ終えるのを待って手を合わせた。
「ごちそうさま。さっきも言ったけど、美味しかった。ありがとね、栞」
「えへへ、お粗末さまでした。涼ってそういうことちゃんと言ってくれるから、私も作りがいがあるってもんだよ」
「普通言うでしょ、作ってもらったんだし」
「……普通だと思ってることって、意外と普通じゃなかったりするもんだよ」
「そうなの? 意味がよくわかんないけど」
首を傾げると、栞はくすりと笑って椅子から立ち上がる。
「わからないならわからないでいいよ。私がちゃーんとわかってるから」
そう言って、栞は空になった食器をまとめ始める。
「あっ……! 洗い物は俺がするから、そのままでいいよ」
「え、でも──」
「でもじゃないの。作るのは栞がしてくれたんだから、片付けくらい俺がやるって。すぐ終わらせちゃうから、栞は先にくつろいでなよ」
「……うーん、そう? 涼がそこまで言うなら、お任せしちゃおうかなぁ」
「うん、そうしてよ」
そうして栞から食器を受け取ってキッチンに向かったわけだが──
「……あの、栞? なに、してるの?」
「んー? なにって……涼に言われた通り、くつろいでるんだよ?」
「それでくつろげてるの?!」
栞は洗い物中の俺の背中にべったりと張り付いていた。
お腹にきゅっと回された腕。
むにゅっと押し付けられた身体。
……はっ!
まさか、これがいいことってやつか?!
と思ったが──
「そこまでくつろげるわけじゃないけどー……涼の応援してあげようかなぁって。だって、洗い物が終わらないと、さっき言ってたやつしてあげられないんだもんっ」
どうやら違うらしい。
俺的には、もう十分すぎるくらいだけど。
結局、皿洗いが終わるまで、栞はそのままだった。
リビングに戻ったところで、ようやく離れた栞はやけにソファの隅っこに寄って腰を下ろす。
「じゃあほら、涼。ここ、おいでー」
栞は、自分の膝をぽんぽんと叩いていた。
「え……そ、それって──」
もしかして、あれか?
全男子の憧れ的なやつじゃ。
「膝枕、してあげる」
……やっぱり。
俺は思わず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「……まじで?」
「うん、まじだけど──あれ? 涼は、膝枕好きじゃなかった? 男の子ってみんな、こういうのが好きかと思ってたんだけど」
「まぁそういうところはあるかもだけど……でも、どうして急に?」
「別に急ってわけじゃないんだよ。私最近、よく涼の本とかマンガとか読んでるでしょ? で、恋愛モノだと必ずってくらい膝枕してるシーンがあって──私もね、してあげたいなぁって思ってたの」
なんということだろう。
まさか俺の蔵書が、栞にそんな影響を与えていたなんて。
「そ、そうなんだ。でも──」
俺はまだ、迷っていた。
膝枕なんて、絶対やばいくらいドキドキさせられるに決まってる。
「本当にいいの?」
「ダメなら言わないよ。言ったでしょ、私がしてあげたいの。だから、嫌じゃないならつべこべ言わずに──早くおいで?」
栞の手が伸びてきて、俺の腕を引いた。栞の隣に、腰が落ちる。そのまま栞は、優しく、それでいて強引な力加減で、俺の頭を膝に導いた。
ぽすっと、栞のふとももが俺の頭を受け止める。デニム越しなのに、柔らかな感触が伝わってきた。
ふわりと、大好きな栞の香りに包まれる。見上げると、サマーパーカーを押し上げる山の向こうに、地上を照らす太陽みたいな、慈愛に満ちた笑みを浮かべる栞の顔があった。
「いらっしゃい、涼。寝心地はどうかなぁ?」
「……もう言葉にならないというか。控えめに言って最高、としか」
「あはっ。喜んでくれたなら、私も嬉しいよ。でもね──」
栞の指先が、ちょん、と俺の腹に触れた。
「力、入ってるよ。ちょっと頭、浮かせてるでしょ?」
「だって……重いだろうし」
「楽にしていいのに。そんなんじゃ、疲れちゃうよ?」
「……でも」
「いいから、力抜いて。私は大丈夫だから。ね?」
さらりと頭を撫でられて、身体が勝手に脱力した。その重みを楽しむように、栞は何度も、何度も頭を撫でてくる。
「あのね、涼。そうやって私に気を使ってくれるのは嬉しいし、涼の優しいところは大好きだけどね──」
子供に言い聞かせるような、穏やかな声が頭上から降り注ぐ。
「私に、遠慮なんかしなくていいんだよ。私、もう涼の彼女だもん。してあげたいことはいっぱいあるし、涼もきっと、してほしいことがあるでしょ?」
その声が、心地よく耳に響く。さらりさらりと髪を梳いてくれる手つきも気持ちよくて──
俺は、静かに栞の言葉に耳を傾けていた。
「だからね、涼にはもう少しわがままになってもらいたいなぁ」
栞の目を見れば、本気で言っているってことくらい理解できる。
でも──
わがままになって、いいのかな?
もし、もっと触れたいって言ったら、許してくれるのかな?
栞に、嫌われたくない。
栞を、傷付けたくない。
この笑顔を、一瞬でも曇らせたくない。
好きだから。
大好きだから。
できることなら、壊れやすい宝物を真綿で包むように、大事にしたい。
栞の脆い部分を、俺は知っている。
もちろん、強い部分だって知っているけれど。
どこまで踏み込んでいいのかを、俺ははかりかねていた。
それでも、今だけは──
栞に甘えて、身体の力を抜くことにした。
「うん、いい子いい子。可愛いよ、涼」
「……やめてよ。でも──ふぁ、ぁ……」
ドキドキするのに、心が安らいで。
小さく、あくびがもれた。
栞の笑みがさらに深くなる。
「お腹いっぱいで眠くなっちゃったかな? いいよ、寝ちゃっても。起きるまで、ずっとこうしててあげるから」
抗えないなぁ……これは。
「……うん」
栞のひんやりした手が目元に触れて、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
眠りに落ちる直前。
「おやすみ、涼。大好きだよ」
そんな囁きとともに、額にキスが降ってきた。




