第81話 幸せなのに、辛い昼
家に帰ってくると、栞はテキパキと買ってきたものを冷蔵庫に片付けて、持ってきた大きなバッグからエプロンを取り出して身につけた。
「今日のお昼は私がやっちゃうから、涼はのんびりしててね」
そう言い残してキッチンに向った栞。すぐにしゃかしゃかと米を研ぐ音が聞こえてくる。俺はリビングのソファに座ったまま、その姿をぼんやりと眺めていた。
「……やば。これ、すごくいいなぁ」
口から、小さな呟きがもれた。
二人きりの家の中、大好きな彼女が料理を作ってくれている。栞が持参したエプロンは、前回使っていた母さんのものよりも可愛らしいデザインで、かといって、わざとらしい感じじゃなくて。
だからこそ生っぽいというか、妄想が膨らむというか。
同棲とか。
新婚生活とか。
そういう単語が、やけに頭を駆け巡った。
もっと、いつまでもこの光景を見ていたい。そんなふうに思うのに、栞は炊飯器をセットし終えると、真っ直ぐに俺のところに戻ってきた。
「……あれ? もうできたの?」
「まっさかぁ。ちょっとだけ休憩だよ。スープもすぐできちゃうし、チャーハンなんてお米が炊けないことには作りようがないもん。だからぁ──」
俺を見つめる瞳がきらりと光った気がした直後──
「りょーうっ、ぎゅーっ!」
「のわぁっ?! ちょ、栞?!」
まるで肉食動物が獲物を捕らえるかのごとく、栞が手を大きく広げて飛びかかってきた。がっちりと抱きしめられた俺は、身動き一つ取れない。全身をぴったり密着させてくる栞に、されるがままだった。
「はふぅ……こうしてると落ち着くよぉ」
……俺は全然落ち着かないんだけど?
ゆったりと吐息をもらす栞とは逆に、俺の心臓はどんどん心拍数を上げていく。膝の上にまたがって抱きついてくる栞の身体の柔らかさとか、体温とか、髪から漂う甘い香りとか、そういうものばかり気になって。
いくらなんでも、くっつきすぎなんじゃ……。
いやまぁ、俺だって栞に甘えられるのは好きだ。大好きと言ってもいい。でも、さすがに頻繁にされると困る。せっかく鍵を栞に預けて取り戻した平常心が、早くも粉々に砕け散りそうだった。
「……し、栞。ちょっと離れて」
「やーだぁ。あ、でも……ごめんね、重かったよね」
そう言うと、栞は俺の隣に座り直して、また抱きついてきた。そういう意味で言ったんじゃないのに。
でも──
「これなら大丈夫だよね。えへへ」
「……ありがと、栞。栞は軽いけど、さすがに長時間は足が痺れそうだからね」
無邪気に笑う栞を前にすると、訂正することができない俺だった。そして、ふと考える。
俺たちが付き合い始めてから二週間くらいになるが、他のカップルのこの時期ってどうなんだろう。ここまでベタベタしているのは、稀なんじゃないかと思う。
「どしたの、涼? お買い物行って疲れちゃった? それとも、お腹すいて我慢できない?」
「……ううん、なんでもないよ」
「そう? でも、うーん……。あ、そうだ。ご飯食べたら、いいことしてあげよっか?」
「……いっ、いいことって?」
思わず声が裏返りかけた。
「ふふっ、まだ内緒っ。でも、そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。たぶん、涼も喜んでくれることだから」
「そ、そっか。じゃあ……楽しみにしてよう、かな?」
「うんっ! というわけで、そろそろ戻るね。もうそろそろ炊けると思うから。ご飯の方も、楽しみにしててね?」
「それは、最初からしてるけど……」
「よーしっ! それじゃあ、美味しいご飯作っちゃうぞー!」
むん、と力こぶを作る真似をして、栞はキッチンに帰っていった。
……え。
栞、なにしてくれるつもりなの?
俺が喜ぶことって──
そんなの、また俺の理性の耐久力が試されるだけだと思うんだが?
「……やば。それはやばすぎるって、栞」
なにがやばいのか俺にもよくわからないが、とにかくやばい。
こんなことなら……鍵、預けなけりゃよかったのかな?
後悔しかけて、すぐにその考えを頭から追い出した。
……いや、だめだろ。
ストッパー、なくなるもんなぁ。
「はぁ……つら」
栞に聞こえないように、こぼす。
幸せなのに、辛い。
でも、栞がくっついてこなくなったら、それはそれで寂しい。栞のそういうところ、すごく可愛いから。
矛盾した気持ちを抱えながら、俺はまた栞に視線を向けた。慣れないキッチンのはずなのに、栞はよどみなくテキパキと動き回っている。
たまに目が合うと、手を振られた。
手を振り返してみたら、嬉しそうな顔をしてくれる。
……まぁ、いいか。
どうせ、俺が耐えれば済むだけの話だし。
心を静めるように待ち、しばらくすると、ダイニングテーブルに昼食が並べられた。
「涼っ! できたからこっち来てー」
「はーい、今行くよ」
向かい合って、席につく。
メニューはスーパーで決めていた通り。
卵でコーティングされた米がツヤツヤと輝くチャーハンと、俺の好物の豆腐がゴロゴロ入った中華スープ。
食欲をそそる匂いに、俺はごくりと喉を鳴らした。そんな俺を見て、また栞が笑う。
「ふふっ、やっぱりお腹へってたんだね。待たせてごめんね。ほら、めしあがれ」
「……いただきます」
手を合わせてから、スプーンを手に取る。一口チャーハンを頬張ると、パラパラなのにしっとりしていて、優しい味わいだった。
「うわ、うまっ……! うまいよ、これ」
「えへへ、ありがと。普通に作っただけだけど……愛情はたっぷり入れてるからね」
「そりゃ美味しくないわけないよね。スープも────うん、最高。これだったら、毎日同じの食べても飽きなさそうだよ」
俺が食べるのをじっと見つめていた栞の瞳が、ぱちくりと瞬く。そして、頬を赤く染めてうっとりと目を細めた。
「……本当、涼は私を喜ばせるのがうまいんだからぁ。そんなのもう──」
「もう、なに?」
「なんでもないですぅっ! まったく、涼ってばもうっ」
「んー……? どゆこと?」
「気にしなくていーのっ! それよりも、私としては冷めないうちに食べてほしいんだけどなぁ? 余計なこと気にしてると、下げちゃうよ?」
「やっ、待って待って! 食べる、食べるからっ!」
慌てて再び食べ始めると、ようやく栞もチャーハンを口に運んだ。小動物みたいにもぐもぐしている栞は、少しだけ唇を尖らせていて。
でも──
口の端に浮かぶ笑みを隠しきれていなかった。




