第80話 お買い物と、空けてほしい片手
◆side栞◆
スーパーの自動ドアを通り過ぎると、空気が変わった。冷房の効いた店内。ヒンヤリした空気が、私の身体から熱を奪っていく。
なのに、胸の奥の熱だけは、いつまで経っても冷めてくれない。
「栞。カート、俺が押すよ」
「……うん、ありがと」
私は涼の左腕にぴったりとくっついたまま、痛いくらい高鳴る鼓動に振り回されていた。
そっと横顔を盗み見ると、涼はすぐに気付いて微笑んでくれて。それだけで、私は息をするのも忘れそうになる。
……本当、困った人だよ。
二人でお買い物に行くんだって浮かれて油断してたところに、いきなりあんなこと言うんだもん。
嬉しすぎて、死んじゃうかと思ったよ。
キスしたくなっちゃったのも、仕方ないんだもん。
そういえば……キス、って。
家の外なのに、しちゃったんだっけ。
…………。
……うわぁ、やっちゃった。
誰かに見られたり、してないよね?
まぁ、見られてたら見られてたで……別に──
いいわけないよねっ?!
恥ずかしいに決まってるでしょぉっ!!
だって……涼とのキスは、二人だけの特別なものだし。
あぁもうっ。
全部涼のせいなんだよ?!
わかってるの?!
じっと見つめると、涼はよくわかってなさそうに首を傾げた。
「どうしたの、栞?」
「……なんでもない、もん」
「そう? ならいいけど──結局、買うものどうしよっか?」
「……涼が食べたいもの言ってくれないと、決まらないんだけど?」
あ……どうしよ。
なんかトゲのある言い方になってたかも。
そんなつもり、なかったのに。
でも、涼は困ったように笑うだけだった。
「あはは、そうだよね。ごめんね。けどさ、栞に教えてもらいながら作ることになるわけじゃん? だったら、なるべく簡単なものがいいかなって思って。俺だとなにが大変かわからないからさ」
怒るでもなく、言い返してくるでもなく。
涼の瞳の奥はただただ優しくて、私の罪悪感を根こそぎ吸い取っていった。
「あ……そっか、それもそうだね。でも、簡単なものかぁ。うーん……」
考えながら、野菜売り場をぐるぐるする。積み上げられたお野菜たちに、ヒントを求めて。
……あ、そうだ。
じゃがいもと玉ねぎが横並びで山積みにされているのを見て、ピンときた。
これなら、簡単かもしれない。
切って、炒めて、煮込むだけだしね。
「ねぇ涼。カレー、なんてどうかな?」
「カレーかぁ。確かに簡単……なのかな」
「大丈夫だよ。難しい工程はないし、私でも教えられそうだから」
「じゃあ、それでお願いしようかな?」
「はぁいっ! あ、あとね。もう一つだけ、カレーにするといいことがあるよ」
「……いいことって?」
涼って、平気であんなこと言っちゃうくせに、結構鈍いところがあるんだよねぇ。
しょうがないなぁ、教えてあげちゃおっかな。
「あのね──」
私は背伸びをして、涼の耳元に口を近付けた。私のことをたっぷり意識させるために、声はひそめて言う。
「……今日二日分作っちゃえば、明日はその時間が浮くんだよ。この意味、わかる?」
ビクリと、涼の肩が跳ねた。
私ばっかりやられっぱなしじゃ不公平だもんね。だから──
「いーっぱい、イチャイチャしようね?」
「……う、うん」
涼は耳まで真っ赤にさせていた。
ちょっと嬉しい。
涼って、こういうところが可愛いんだよね。
……この三日間で、たっくさんドキドキさせてあげるんだから。覚悟してよね?
メニューが決まれば、買うものもだいたい決まってくる。カレーだけじゃお野菜が足りないから、サラダも作ることにして。
「お野菜はこれでいいとして、お肉はどうする? うちはチキンカレーなことが多いけど」
「あ、うちもそうだよ」
「そうなの? お揃いだね!」
思わず声が弾む。
今は些細な共通点でも、全部嬉しい。
「あ、そうだ。涼、お豆腐も買ってく? 好きでしょ?」
「好きだけどさぁ……カレーに豆腐?」
「入れてほしいなら入れよっか? どうなるかわかんないけど」
「いやぁ、さすがになしかなぁ」
「ふふっ、だよね。じゃあ、今日のお昼に使ってあげる。ちょっと時間遅くなっちゃったし、パパっとチャーハンとお豆腐の中華スープでも作ろっか?」
「まじ? やった!」
すぐに涼の顔がパァッと輝く。
その表情がちょっと子供っぽくて、胸の奥がキュンとした。
それから、朝ご飯用にパンとハムと牛乳、卵も買い足すことにして。私が最初から作る予定だったメニュー用の食材も、もちろん過不足なくその中に紛れ込ませてある。
……なんて、勝手に入ってただけなんだけどね。
会計を済ませて袋に詰めてみると、エコバッグ二袋がぱんぱんになっていた。それを涼が両方ともひょいと持ち上げる。
「涼、一つ私が持つよ」
「でも、重いよ?」
「大丈夫だから、一つちょうだい」
「これくらい平気だってば。力仕事は任せてといてよ」
……涼ってば、変なところで頑固なんだから。
でも、私も譲るわけにはいかないの。
「ダーメっ! い い か ら ち ょ う だ い !」
少しだけ語気を強めると、涼は渋々両方の袋の重さを比べて、片方を差し出してくれた。
「そこまで言うなら……はい。でも、途中でしんどくなったらちゃんと言うんだよ?」
「うんっ、その時はお願いするね。えへへ、ありがと。それで──えいっ」
私は空いている涼の左手の指に、自分の指を絡ませた。しっくりと馴染むその感触に、自然と頬が緩んだ。
重いのなんて全然耐えられるけど、片手が寂しいのは耐えられないから。
「ね? 両手が塞がったら、困るでしょ?」
「……そうみたいだね。やっぱり、栞は甘えん坊だよ」
「涼にだけなんだからいいんだもーんっ。というわけで──帰ろ?」
「……はいはい」
涼は観念したみたいに、肩をすくめて笑った。
帰り道の途中、ちょっとだけ手が痛くなってきたけど──
この手を離したくなくて我慢してたのは、涼には絶対内緒だよ?




