第79話 路上のキスと、決まらない献立
スーパーへと向かう道中。
栞はいつも以上に上機嫌だった。
わずかにしっとりと汗ばむ肌が俺の左腕に吸い付き、栞は数秒おきにニコニコと見上げてくる。やがて、俺の方を向いたまま、ぴたりと固定された。
「そういえば──さっき聞きそびれちゃったんだけど、涼はなにが食べたい? あんまり難しいのは無理かもしれないけど……レシピ見ながらなら、ある程度はリクエストに応えてあげられるよ」
あ、そうだった。
俺が話を遮ったせいで、まだ答えてなかったっけ。
「そうだねぇ……正直、栞が作ってくれるならなんでも──」
……いや、待てよ。
これは──あの話をするいいタイミングなんじゃないか?
「……あのさ、栞。その前に、少しだけ相談したいことがあるんだけど」
「うん、なぁに?」
「えっとね……料理するの、俺も手伝ってもいいかな?」
そう言った瞬間、栞の顔に小さな影が落ちた。
「……もしかして涼、私だけで作るの──心配?」
「違う違う! そういうんじゃなくて!」
「……じゃあ、なんで?」
「栞が張り切ってくれてるのも、栞が料理上手だってことも知ってるよ。それに、栞に作ってもらえるのはすごく嬉しいんだけどね──栞だけに任せるのは悪いっていうか」
「そんなの気にしなくていいのに。涼のためなら、私、なんにも苦じゃないよ?」
……うん。
なんとなく、わかってた。
栞はきっと、こう言ってくれるんだろうって。
でも、俺の言いたかったのはそういうことじゃない。なら、どう言えば伝わるんだろう。
自分に問いかけると、これまで漠然としていたものが、ゆっくりと輪郭を持ち始めた。
……そっか、簡単なことだったんだ。
「栞が苦じゃなくても、俺は一緒にやってみたいって思うんだよ。今はまだ栞の足を引っ張るだけかもしれないけど──もうちょっと先のためにも、なにもできない自分のままじゃ嫌なんだよ」
「……もうちょっと先、って?」
「いや、だってさ……このまま栞と付き合ってれば、いつかは本当に一緒に暮らすこともあるかもしれないじゃん? それでさ、例えば栞が体調を崩したりしたら……俺も、なにかしてあげたいし」
こんな話、気が早すぎるとは思う。でも、将来的にはそうなりたいって気持ちは、もうどこかにあって。
だから、たぶん早すぎるってことはないんだろう。
「それで──どうせ教えてもらうなら、母さんよりも栞がいいかなぁって」
栞は、なにも言わない。
ただじっと、俺の顔を見つめていた。
その瞳にじわりと涙が浮かんだのが見えて、思わず息を呑む。
「ご、ごめん……。栞が嫌なら無理にって話じゃ──んっ?!」
俺の言葉は、そこで強引に遮られた。
目の前には、栞の顔。
近すぎて焦点も合わないが、目を閉じているのはわかる。そして、唇には柔らかな感触が。
少し遅れて、ようやく気付いた。
……栞に、キスされてる。
栞はなかなか離れなかった。ぎゅっと俺の首に抱きついて、唇を押し付けてくる。それだけじゃなくて、唇を啄まれたり、吸い付かれたり。
やけに必死で、情熱的で、しかも長くて──
頭がくらくらするのは、きっと暑さのせいだけじゃない。ここが外だってことを、まるっと忘れてしまっているみたいな、頭が芯から逆上せるようなキスだった。
時間の感覚が曖昧になって、どれくらいキスをされていたのか、もうわからない。ようやくキスを解き、離れていった栞の目尻には、大きな涙の雫が光っていた。
栞は俺の胸をぽすんと叩いて、そのまま顔を埋めた。
「……ずるいよ涼。いつもいつも、本当にずるい。ダメだよ、涼。いきなりそんなこと言われたら、私……おかしくなっちゃうのに」
「ごめっ──んむっ?!」
また、口をふさがれた。
今度は軽く、すぐに離れた。
「謝っちゃ、やだ。だけど……ずっと、そのままの涼でいて」
「……わ、わかった」
よくわからないまま頷くと、栞は所定の位置に落ち着いた。
落ち着かないのは、俺の心臓だった。
すりすりとか、ぐりぐりとかされたら、落ち着きたくても落ち着けるわけがない。
「……もうっ、涼のばかぁ。ばかばかばかっ! えへへ……大好きっ」
栞の顔はデレデレになっていて、そうさせたのは俺だって自覚はある。
だからまぁ──
このままでも、いいかな。
こんな栞、めったに見られな──いや、結構見てるかもしれないけど。それでも、栞が隣で幸せそうに笑ってくれているのが、俺の幸せでもあるから。
「ねぇ涼?」
甘えた声が、俺を呼ぶ。
「……なに?」
「あのね──お手伝いはしてもらうことにするけど……私だけで作る機会も、ちゃんと残してくれるよね? 私だって、私だけで作ったもの、涼に食べてもらいたいもん」
「栞のしたいようにでいいよ。ほら……たぶん俺、今はまだ本当に足手まといにしかならないだろうし」
「それは大丈夫だよ。私が優しく丁寧に、手取り足取りじっくり教えてあげるから。じゃあ、そんな感じでやって──あっ」
栞が、俺を見上げる。
ついさっき見たのとまったく同じ顔で。
「一応聞くけど……どうしたの?」
「また涼の食べたいもの聞きそびれてるよっ!」
「そうだと思った……けど、まだ決まらないんだよねぇ」
「もーっ、ちゃんと考えてよぉ!」
話は振り出しに戻り、栞の機嫌がさらにいい方向に振り切れて、密着度だけが増していた。
そんな状態で、まともに考えられるはずもなく。
「とりあえず……スーパーで材料見ながら考える、でいいかな?」
俺は先延ばしにすることを選んだ。それでも栞はやっぱり嬉しそうに笑う。
「しょうがないなぁ、涼は。でも、早くしないと私が勝手にぜーんぶ決めちゃうんだから。というか、もう一つは絶対作ろうと思ってるのあるんだけどねっ!」
「え、なに作ってくれるの?」
「んふふっ、まだ内緒っ!」
「えー! いいじゃん、教えてよ」
「ダメでーす! それよりほら、ちょっと急ご? あんまり長く外にいたら、日焼けしちゃうよっ」
栞は俺の腕を引いて、ずんずん進んでいく。
笑い声は、鳴りやまない。夏の暑さよりもより熱いなにかが、俺たちの間に漂っていた。




