第78話 母さんの置き土産と、二人で一緒に
俺と栞は、リビングのソファに身体を沈めて手を繋ぎ、静かに寄り添っていた。聞こえるのは俺と栞の息遣いと、少しだけいつもより速くなった自分の鼓動だけ。
そうして気分が高まっていくのを感じていると、不意に栞がぴょんと立ち上がる。
「さぁてとっ! 名残惜しいけど、お昼になっちゃう前にお買い物に行ってこようかな。涼はなにか食べたいものとかある?」
その言い方に、小さな違和感を抱いた。
……まさか栞、一人で行くつもりなんじゃ?
「俺も一緒に行くよ」
そう言うと、栞はきょとんとして首を傾げる。
「涼はおうちでゆっくりしてていいんだよ? 水希さんに頼まれてるし、そういうのは私の役目でしょ?」
……やっぱり。
でも、その言い分は認められない。
「ダメだってば。とにかく、準備してくるからちょっと待っててよ」
「え……うん」
栞の返事を待って、俺は自室へ向かう。外用の服に着替えるためではあるが、ついでにもう一つやることがあった。
部屋に入ると、机が目に入った。その上に、覚えのないものが置かれている。
手の平サイズの、見慣れない長方形の箱。
けれど、それがなにかはすぐにわかった。
あのバカ親っ!
いったいなに考えてんだ?!
せっかくそういうことを意識しないようにしていたのに。
思わずそれに手を伸ばそうとして、気付いた。その箱の下には、メモ書きが一枚差し込まれていた。
『あんたのことだから用意してないと思って、念のために置いておきます。三日間、栞ちゃんと仲良くね。お節介な母より♡』
考えるよりも前に、俺はそのメモ書きをビリビリに破ってゴミ箱へ放り込んでいた。なんだか無性に、末尾の♡にイラッとして。
そして、肝心の箱の方を掴み上げて途方に暮れる。
どうすんだ……これ。
一瞬、このままメモ書きに続いてゴミ箱に叩き込もうかと思った。
でも──やめた。
いやまぁ……いずれ使うことも、あるだろうし?
持っておいて損はない……のかも。
ただ、あまり目に留まるところに置いておくのはまずい。意識しすぎて、変になりそうだから。
ひとまず、机の一番上の引き出しに放り込んで、鍵をかけた。そして、その鍵は──
……栞に、持っててもらおうかな。
もちろん、なんの鍵かは言わずに。
そう決めると、少しだけ気が楽になった。
そうして、ようやく本来の目的の着替えに取りかかる。ズボンは、先日のデートで栞が選んでくれたものを。上は──適当なTシャツにしておいた。
鍵をポケットに押し込んでリビングに戻ると、栞はソファに座って、手持ち無沙汰そうに脚をぱたぱたさせていた。
「ごめん、栞。お待たせ」
「あっ、おかえり涼。そんなに待ってないから平気だよ。でも……本当に涼も行くの? お外、きっとすごく暑いよ?」
「なら、なおさら栞だけで行かせられないよ。それにさ──一人で行くなんて言わないでよ。置いていかれたら寂しいじゃん」
ぽん、と栞の頬が赤く染まった。髪の毛をくるくるともてあそんで、潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
「……もう、それはずるいよぉ。でも、間違ってたのは私の方だったみたいだね。なんか、ちょっと張り切りすぎてたのかな……。ごめんね、涼」
「ううん、いいって。わかってくれたなら、それで」
「……うん、ありがと。じゃあ、一緒に行ってもらっちゃおうかな」
弾むように立ち上がって、栞は俺の左腕にぴったりとくっついた。
「というわけで……まずは冷蔵庫の中身を知っておきたいんだけど、見てもいいかな?」
「もちろん。俺たちしかいないんだし、好きに開けてくれたらいいよ」
「はぁいっ」
栞はとことことキッチンに向かい、冷蔵庫を覗き込んだ。腕を掴まれたままの俺も、一緒に。
「ありゃ。ほとんどなにもないんだねぇ」
「だね。母さんがさ、栞の好きにできるようにって、ほぼほぼ使い切ってたみたいだから」
残っているものと言えば、数個の卵とパックの開いている牛乳、それとドレッシングや調味料の類くらいだった。
「それなら、涼がついてきてくれるのは正解だったね。いろいろ買わなきゃだもん」
「でしょ?」
「うんっ。さすが涼だね」
「あはは、褒めてもなにも出ないよ」
「いいよ、別に。一緒にいてくれれば、それで」
あぁ、やばいなぁ。
始まったばっかりなのに、もう楽しい。
栞が可愛くて仕方がない。
でも、だからこそ──
俺は、ポケットの中の鍵を強く握りしめた。
「……あのさ、栞。出かける前に、一つだけお願いがあるんだけど、いいかな?」
「んー? そんなのいちいち聞かなくても、涼のお願いならなんでも聞くよ?」
邪気のない顔で、栞が笑う。
少しだけ罪悪感がわいた。
でも、俺はもうこうするって決めていた。
「えっとね……なにも聞かずに、これを預かっててほしいんだよね。とりあえず、うちの両親が帰ってくるまで」
言いながら、栞の手に鍵を乗せた。
「これって、鍵? なんの──って、聞いちゃダメなんだっけ?」
「ごめん。今はちょっと言えないけど……たぶん、大切なものだから」
「ふふっ。涼のなのに、たぶんなんて変なの。でも、わかったよ。預かっとくね」
鍵は、栞の持ってきたバッグの中にしまわれた。それを見届けると、ほっと息がもれた。
「ありがと、栞」
「んーん、これくらい全然だよ。これでもうお買い物行ける? あとはなにもない?」
「うん、大丈夫。それじゃ、行こうか」
「はーいっ!」
栞は、まるでそこが定位置だとでも言うように、また俺の左腕にくっついた。そのまま玄関に向かい、靴を履いて──
俺たちは、眩しい日差しの下へと踏み出した。




