第77話 二人きり、だね?
階下から、ドタバタと騒がしい音が聞こえてくる。それは母さんが出発の準備に追われている音だった。
母さんは毎度、ギリギリになってからあれがないこれがないって言い出すんだ。
例年通りなら、俺と父さんが自分の支度を終えてから手伝うパターンなのだが──
今年の俺は留守番を言い渡されている身。はなから放置を決め込んでいた。
そんなわけで、俺は一人自室で考え事をしている。考え事というのは、もちろん栞とのことだ。
今日から三日間、栞はうちに泊まりに来る。
……しかも、俺の食事を作りに。
それ自体はすごく楽しみだし、飛び上がりたくなるほど嬉しい。
でも──任せっきりにしていいのかな、とも思う。
栞にばかり、負担をかけたくない。
というか、栞がしてくれるのを当たり前だと思うような自分にはなりたくない。
なら……どうしたらいいんだろう。
皿洗いくらいはするつもりでいるけど、それだけじゃ足りない気もする。
じゃあ、料理を覚えてみる……とか?
俺に……やれるかな。
むしろ、栞の負担を増やすことになったりして。
「はぁ……ダメだ。一人で考えてもなにが正解かわかんないや」
……やめた。
後で栞に相談してみよう。
どうせ、もうそろそろ来る時間──
「おい、母さん。まだ準備できないのか?」
さすがに痺れを切らしたのか、珍しく父さんの大声が飛んだ。
「あぁっ、待って待って! あとちょっとだから!」
……まったく。いつまでやってるんだよ、母さんは。栞が来る前には出かけるって、言ってなかったっけ?
呆れながら部屋を出てみると、母さんが階段を駆け上がってくる。
「あ、涼。私たちもうすぐ出るから、くれぐれも栞ちゃんを困らせるようなことは──」
ピンポーン。
母さんの小言を遮るように、インターホンが鳴った。
「あっ、来た!」
俺は母さんの横を素通りして、玄関に急いだ。
そして、ドアを開けるとそこには──
「おはよう、しお──え……?」
「おはよう、涼くん。ごめんね、栞じゃなくて」
栞ではなく、文乃さんが立っていた。
「あ、いえ……別に文乃さんが悪いとかいうわけじゃなくて──おはようございます。それで……栞はどこに?」
「ふふっ。そんなに慌てなくても、ちゃんと車の中にいるわよ。なんか荷物の最終確認がーとか言ってたから、置いてきちゃった」
茶目っ気たっぷりにウインクをした文乃さんに、少しだけドキリとした。
……笑った顔、栞とそっくりなんだよなぁ。
親子なんだから、当たり前だけど。
「……じゃあ俺、荷物運ぶの手伝うんで栞のところに行ってきますね」
「あ、涼くんちょっと待って」
靴を履き、駆け出そうとしたところで呼び止められた。
「どうしたんです?」
「えっとね、ご両親ってまだいらっしゃる? 帰省されるとは聞いてるけど、できればご挨拶しておきたくって」
「あー……。いるにはいるんですけど」
相変わらず、母さんの足音がバタバタと響いていた。おまけに父さんは人見知りだし。
と思っていると、母さんが二階から降りてきた。
そして──
「涼、準備できたから行ってくるわね。栞ちゃんが来たらこれを──あら?」
文乃さんとばったり鉢合わせた。
「もしかして……栞ちゃんのお母様、ですか?」
母さんがそう言うと、文乃さんはぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、栞の母の文乃です。いつも栞がご迷惑をおかけしてすいません」
「これはどうもご丁寧に、涼の母の水希です。栞ちゃんはとってもいい子ですし、迷惑だなんてとんでもないですよ。むしろ、栞ちゃんの彼氏がうちの愚息なんかで申し訳ないくらいで」
……おい。
あんまり文乃さんの前でけなすなよなぁ。
軽く睨んでみたが、母さんは俺のことなんてちっとも見ちゃいなかった。
「いえいえ、涼くんだって真面目で誠実な子じゃないですか。こちらこそ、栞が涼くんを振り回してるんじゃないかって心配で」
「こんなのいくらでも振り回しておけばいいんですよ。本人も嬉しそうにしてるんですから」
母さんに頭を掴まれて、ぐりぐりと揺すられた。
文乃さんにも、微笑まし気な目で見つめられる。
……いたたまれない。
俺は戦略的撤退を決めた。
会話が盛り上がり始めた隙をついて、二人の横をすり抜ける。門の外には、見覚えのある車が止まっていた。
近付くと、窓越しに栞の姿が見えた。
文乃さんの言っていた通り、なにやらゴソゴソと荷物を漁っている最中だった。
窓をコンコンと叩いてみると、栞は肩を跳ねさせて振り向く。それから、慌てた様子で車から降りてきた。
栞が車から引っ張り出したのは、パンパンに膨らんだ大きめのバッグ。俺が無言でそれを受け取ると、栞は頬をほんのりと赤く染めて、小さくはにかんだ。
「……ありがと。それと──おはよ、涼」
「うん、おはよう。栞だと思って玄関開けたら、文乃さんがいたからびっくりしたよ」
「えへへ、ごめんね。思ったよりも荷物が多くなっちゃったから、お母さんに送ってもらったの。それで……お母さんは?」
「玄関の中でうちの母さんと話してるよ。とりあえず、俺たちも行こうか」
「うんっ!」
空いている方の俺の手を、栞の華奢な手がちょこんと握った。俺からもしっかりと握り直して、玄関へと向かう。
ドアを開けると、外まで漏れ聞こえていた会話がぱたりと途切れた。
「ようやく降りてきたわね、栞。おかげで水希さんとお話が弾んじゃったじゃない」
「だって……忘れ物があったら大変なんだもん」
「そんなのちょっと取りに帰ればいいだけ──なんて、今の栞に言うのは無粋かしら。とにかく、無事に送り届けたことだし、私はこのあたりでおいとまさせていただくわ。涼くん、栞をお願いね」
「……はい」
「水希さんも、またどこかでゆっくりと」
「えぇ、楽しみにしてますね」
「それから、栞。涼くんと仲良くね。明後日の夕方、迎えに来るから」
「うん。ありがと、お母さん」
文乃さんは最後に俺と栞を交互に見て、微笑みを残して帰っていった。
遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、栞を家に招き入れる。すると、それを待っていたかのように、母さんが栞に茶封筒を差し出した。
「……これは?」
「三日分の食費。少し多めに入れてあるから、足りなくなることはないはずよ」
「……なんで俺じゃなくて栞に渡すんだよ」
「さっき渡そうと思ったけど、タイミングが悪かったじゃない?」
「理由になってなくない?!」
「察しなさいよ。栞ちゃんの方がしっかりしてるからに決まってるじゃない」
……。
ぐうの音も出ない。
栞は苦笑して封筒を受け取り、ぎゅっと胸に押し当てた。
「……ありがとうございます。大事に使わせてもらいますね」
「そうしてちょうだい。余っても、返さなくていいから。今後、二人で遊ぶ時の足しにでもしてね」
「え……いいんですか?」
「もちろんよ。私からお願いした話なんだもの、これくらいはしないと。あとはまぁ──将来への投資みたいなもの、かな?」
「……投資」
栞はじっと封筒に視線を落として考え込み、やがて、こくんと頷いた。
「わかりました。ありがたく受け取っておきます」
「その方が嬉しいわ。というわけで──ちょっと遅くなっちゃったけど、そろそろお邪魔虫は消えましょうかね」
母さんは俺たちに背を向けて、リビングへ駆け込んでいく。少しして、大荷物を抱えた父さんを引き連れて戻ってきた。
ぱっと、栞が目を見開く。
これが栞と父さんの初対面だった。
「あ、あのっ! いつも勝手にお邪魔しちゃってますけど、私──」
その瞬間。
挨拶をしようとした栞を、父さんが手で制した。
「……栞さん、涼を頼みます」
父さんらしい、短い言葉だった。
けれど、栞は瞳を輝かせる。
「はいっ、任せてください!」
栞はどこか誇らしげに胸を張っていたわけだが──
その最中、母さんが俺に耳打ちをしてきた。
「涼。後であんたの机の上、見ておきなさいね。もしもの時は──ちゃんと使うのよ」
「……は? なにそれ」
「見ればわかるわよ」
深く追求したいところだが、だんだん焦れったくなってきて、俺は適当に頷いておいた。
そうして両親がいなくなると、家の中に静寂が落ちた。
俺はひとまず持ったままだったバッグを床に置き、栞を抱き寄せる。
「……栞」
「……うん、涼。とりあえず──んっ」
背伸びをした栞は目を閉じて、唇を俺に向けた。
登校日の朝から始まった、俺たちの儀式。
挨拶代わりのキスを交わすと、いよいよ実感がわいてくる。
「えへ……二人きり、だね?」
「そう、だね」
こうして、長いようで短い、俺たちの三日間が幕を開けた。




