第9話 溶け出す空気と、交換の儀式
しばらくして、黒羽さんは手の甲で目元を拭うと、俺の制服の肩口をキュッと摘んだ。
「ねぇ、高原くん。これで私たち、お友達になったってことでいいんだよね……?」
「えっ、うん。そのはずだけど……たぶん」
俺に友達ができるのはこれが初めてだ。曖昧な返事になってしまうのも仕方のないことだと思う。
けれど、それがどうにも気に食わなかったのか、黒羽さんはツンと唇を尖らせた。
「たぶんって、なに? 高原くんから言い出したくせにっ」
「い、いや、ごめん。なんだかまだ実感がわかなくてさ」
「もうっ、そんなこと言ってると、友達になるのやめちゃうんだからね?」
「えっ、それは困るよっ!」
「なら、たぶんとか言わないで。私まで不安になるでしょ?」
「あ……そうだね。気を付けるよ」
「うん、そうしてほしいな。私もね、なしにしたくないから」
あれ……?
なんか、ちょっと雰囲気が変わったような。
なんとなく違和感を覚えてじっと見つめると、黒羽さんは照れたように少しだけ顔を逸らした。
「それでね、せっかくお友達になったことだし、連絡先の交換とかしてみたいなぁ……なんて思うんだけど、いいかな?」
「う、うん、もちろん。友達、だもんね。普通、それくらいするよね」
「本当っ! 嬉しいっ!」
弾む声。前髪で目元が隠れていたってわかる。満面の笑みを浮かべてくれているって。
そして、黒羽さんはウキウキと鞄からスマホを取り出し、俺の前に突き付けた。
「ほら、高原くんも早く出してよ」
「そんな急かさなくても……」
なんて言いつつ、俺も大慌てで鞄の中のスマホを探り当てた。そうして、俺たちは連絡先の交換という、他のみんなは当たり前にやっていることを、厳かな儀式のように執り行った。
家族以外に誰も登録されていなかったスマホに、『黒羽 栞』と、初めてできた友人の名前が表示されている。
嬉しい。
言葉にすればこれだけだが、俺はそれ以上の高揚感に飲まれていた。
たった一人。
でも、だからこそ特別で、大切で……。
そう意識した瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。心臓の鼓動も、ドキドキとうるさくて。
「えへへ。高原くん、これから、よろしくね?」
「うん……こちらこそよろしく」
黒羽さんも、嬉しそうに笑ってくれる。
そんな黒羽さんから、目が離せない。そのせいか、黒羽さんはくすぐったそうに身体を捩った。
「……なぁに? そんなにじっと見て。私の顔、なにかついてる?」
「ご、ごめん。そういうんじゃないんだけど……なんか、キャラ変わったかなって」
「あっ、ごめんね……。今までって、やっぱり変だったよね。自覚はあったんだけど、直せなくて。感じ悪かったでしょ? ごめんなさい」
「気にしないで。別に変じゃなかったから。まぁ、堅苦しいとは思ってた……かな」
「だよねぇ……。実はね、高原くんには本当の私を見てほしいなぁって思ってて──あっ……。もしかして、これまでみたいな感じの方が良かったりする、かな?」
不安気に尋ねられて、俺はゆっくりと頭を横に振った。
「黒羽さんのしたいように──黒羽さんらしくしてくれたらいいよ。その方が、疲れないでしょ?」
「私らしく……かぁ。うん、わかった。ありがとう、高原くん」
「そんな、お礼言われるようなことじゃ」
「そ、そうだよね……」
思わず、二人して黙り込む。
沈黙が重い。なのに、不思議と気まずくはない。
やがて、静寂を壊さないように、黒羽さんが小さく口を開いた。
「……そ、そろそろ勉強、再開──」
言いかけたところで、下校のチャイムが鳴り響いた。気が付けば、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。
「……時間切れ、みたいだね」
名残惜しい気持ちをそのまま吐き出すと、黒羽さんも残念そうにこくりと頷く。
「そう、みたいね。今日は、帰ろっか?」
「だね。せっかくだしさ、校門までは一緒に行こうよ」
「えっ……いいの? 私、たぶんクラスの人から嫌われてるよ? もし一緒にいるところ見られたりしたら……」
「大丈夫だって。この時間ならほとんど人もいないだろうし。それに、黒羽さんは友達だから。俺は嫌ってないから」
「……もう、ばかっ。……そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらおっかな」
「うん、そうしてよ」
俺たちは帰り支度を整えて、揃って図書室を後にする。昇降口への廊下はシンと静まり返り、二人の足音だけが重なって響く。
靴を履き、校庭を抜けて、校門の前。俺たちは、同時に足を止めた。
「……じゃあ、また明日」
別れを告げ、駅に向けて一歩踏み出すと、背中側の制服の裾を摘まれた。
「……待って」
「うん? どうしたの?」
「えっと、えっとね……夜、連絡しても、いい?」
遠慮がちで、恥ずかしそうで、照れくさそうな声が俺の鼓膜を揺らす。夕焼けの光が柔らかく伸びて、二人の影が少しだけ溶け合った。
その時、ざぁっと、風が吹き抜けた。
黒羽さんの前髪を巻き上げ、片目がちらりと覗く。ほんの一瞬のことだったが、ほんのりと潤んだ瞳に、俺は心を奪われた。つい、見惚れてしまった。
「やっぱり……迷惑かな?」
「そんなことないっ! あ、その……待ってるよ」
「やったっ。約束したからねっ。絶対、お返事してね! 既読スルーとか……許さないから」
そう言うと、黒羽さんはスカートを翻しながら駆け出す。俺はただ、遠ざかっていくその背中を見送ることしかできなかった。
……どうしよ。
あんなこと言われたら、友達だって思えなくなるじゃん。
……おかしいのかなぁ、俺。
友達になったばっかりで、こんな。
この気持ちに名前をつけることは、できなかった。その言葉を、まだ知らないから。
俺はため息を一つついて、駅への道を歩き出す。
黒羽さんからの連絡を、今から待ち遠しく思いながら。
そんな俺が、駅のホームで黒羽さんとばったり再会するまで──
あと数分。




