第10話 壊れたブレーキと、甘美な予行練習
◆side栞◆
息を切らして駆け込んだ駅のホームで、ちょうどよく停車していた電車を、私はあえて見送った。高原くんが電車通学だってことを、私は知っていたから。
帰る方面がどっちかまでは知らない。
それでも、もう少し待っていれば、彼はこの駅にやってくる。
反対側のホームに現れたら、こっそり手を振ろう。気付いてくれるかな。気付いてくれるといいなぁ。
もしも同じ方向だったなら、その時は──
つい、あわよくば、なんて考えてしまう。
高原くんと友達になってから、私の欲は溢れっぱなしなの。それが恥ずかしくて、さっきは逃げ出しちゃったくせに。
だって……、もう誤魔化しきれないよ。
私は自分が嫌い。それはまだ、話せないことだけど。それなのに、私らしくいていいって言ってくれた。
お友達になりたいっていうのもそう。
私は打算に打算を重ねて切り出そうとしていたのに、高原くんから言ってくれた。
高原くんの前でだけは、私は無理をしなくて済む。もう自分を嫌わなくてもいいんだって、そう思えてしまったの。ううん──少しだけ、また自分を好きになれた。
心が、すぅっと軽くなったんだよ。
それと同時に、心臓が暴れ出す。ドキドキして、顔が熱くなって、高原くんの顔が真っ直ぐ見られない。
こんな気持ち、初めてだった。
お友達になれただけでも上出来なのに。でも、この感情をなかったことにしたくない。気のせいだなんて、思いたくない。
だからもっと──
「え、あれっ……? 黒羽さん?」
不意に、驚いたような声が私を呼んだ。振り返らなくてもわかるよ。期待して、待ってた声だもん。
「高原くん……。追いつかれちゃった、みたいだね」
あぁ、どうしよう。
うまくいきすぎてる。
私は、二分の一の勝負に勝った。
高原くんは私に気が付くと、迷いなく近付いてくる。距離が縮まるたびに、心臓が悲鳴を上げる。
痛くて、苦しくて、嬉しい。だから、今度こそ私は逃げなかった。
「びっくりしたよ。黒羽さんも電車だったんだね」
「うん、そうなの。しかも、まさか同じ方向だとはね」
「ね。これまで電車の中で会わなかったから知らなかったよ」
「タイミングがずれてたんだろうね。でも、今日は一緒だよ? あっ! ほら、電車来たみたい。乗ろ?」
「う、うん」
この時間帯は、通勤通学の利用者が多いからか、電車の本数が多い。ドアが開くのを待って、私たちは同じ車両に乗り込んだ。
運よく二人分空いていた席に座ると、電車は静かに動き出した。
会話らしい会話は、ほとんどなかった。
それでも、電車の揺れに合わせて時折触れる肩が、全てを物語っている気がした。
触れないようにしようと思えば、できないことないのに。
ねぇ……。
私だけ、こんなに意識してるわけじゃないよね?
わざとらしくならないように、ほんの少しだけ体重を預けてみる。高原くんの呼吸が、一瞬止まった。
それだけで、満たされてしまう自分が怖い。
まだ、友達になったばっかりだもん。
焦って、壊したくないの。
そう自分に言い聞かせていると、高原くんがこちらを向いた。
「──黒羽さん。せっかく一緒だったのに、あんまり話せなくてごめん。俺、降りるの次だから」
「そうなのっ?! 私、もう一つ先の駅だよ」
「えっ、じゃあ……家も近いのかな?」
「かもね……。すごい偶然だね」
「本当にね──って、やば。俺、もう降りなきゃ。黒羽さん、また明日ねっ」
「ううん、また夜に、だよ」
「そうだった。また夜だね」
そう言い残して、高原くんは閉まりかけたドアから飛び出していった。その姿は、同じ駅で降りていった人の波に飲まれてすぐに見えなくなってしまったけど、最後に見せてくれた笑顔が頭から離れない。
え……待って待って。
頭、追いつかないよ。
こんな偶然ってあるの?
私は呆然として、危うく降りる駅を乗り過ごしかけた。
どうしよう。抑えられない。
想いは、堰を切ってあふれ出す。
こんなのもう、好きなんかじゃ全然足りないじゃない。
家に帰っても、頭の中は高原くんでいっぱいだった。ご飯を食べて、お風呂に入っている間もずっと。
寝る支度を全部整えて、私はスマホを手に取った。
約束、だもんね。
『今日は、色々とありがとう。高原くんとお友達になれて、すごく嬉しかったよ。それでね、もし良かったらなんだけど、これからは一緒に帰らない? ……なんてね。それじゃ、おやすみなさい』
何度も何度も自分の入力した文章を読み返す。
おかしくないかな。
断られたりしないかな。
踏み込みすぎてないかな。
不安に襲われるけど、震える指先で送信ボタンをタップする。
……送っちゃった。
そう思う間もなく、メッセージに既読が付く。
『既読』
そのたった二文字が、私の心臓を鷲掴みにする。
読まれてる。
読んでくれてる。
こんなにすぐに。
待ってて、くれたんだ。
顔がカッと熱くなって、私はベッドに倒れ込む。枕に顔を埋めて、足をジタバタさせて悶えて。
そうしていると、手に持ったままのスマホが震えた。恐る恐る画面を覗くと、返信が来ていた。
『俺の方こそありがとうだよ。俺もさ、一緒に帰れたら嬉しい、かも。おやすみなさい』
お互いにおやすみで締めくくったせいで、一往復のやり取りで終わっちゃった。もったいないことをした気がするけど、これ以上続けたら耐えられない。
息が詰まる。
焦らないなんて、もう無理だよ。
ブレーキなんて、壊れちゃった。
なら、どうしたらいいのかな?
私は考える。
考えて、考えて、ふと思い付いた。
穴の空いた試験の勝負の報酬。もっと仲良くなるために使えばいいって。だって、高原くんにも私と同じ気持ちになってほしいから。
私だけが近付くんじゃ、だめ。
お互いに一歩ずつでも歩み寄れるなにかがほしい。
……そうだ。
名前なんてのは、どうかな。
今の私たちは、『高原くん』『黒羽さん』って呼び合ってる。それを、もっと親密な呼び方に変えたらいいのかも。
試しに、心の中で呼んでみる。
『涼……くん』
うわっ、すごくいい。
けど、もっと、もっと欲しい。
『……涼』
胸が、キュンと締め付けられた。
もう一度、今度は口に出してみる。
「涼」
自分の声が、ジンっと耳に甘く響いた。
これだ。これ以外は考えられない。
でも、私が呼ぶだけじゃ、不公平だよね。
私だって、名前で呼んでもらいたいもん。
柔らかく微笑むあの顔を思い浮かべて、優しい声音で──
『……栞』
妄想の中で、高原くんに名前を呼ばれた。その声が頭の中を掻き乱して、視界がぼんやり白く染まる。甘くて、毒みたいで──
私の意識は、ぷつりと暗転した。
ちょっと、刺激が強すぎたみたい。




