第11話 呼び合う名前と、甘い余韻
期末試験最終日、最後の科目は数学だった。これは、中間試験で一番点数が取れなかった科目だ。
けれど、俺は迷いなくペンを走らせる。図書室で、黒羽さんが教えてくれた公式の使い方。それを思い出すだけで、解法が次々と浮かんできた。
わかる。
解ける。
さすがに完璧とまでは言えないが、明らかに成果が出ていた。
俺一人じゃ無理だった。黒羽さんがいてくれたから、ここまで来られた。試験の内容だけじゃない。まず、心構えが以前とは段違いだった。
俺に割いてくれた時間に報いるためにも。
そしてなにより、友人として胸を張れるように。
本当、頭が上がらないよなぁ。
見直しまで済ませて、俺は息を吐く。やれることは全部やった。あとは、結果を待つだけだ。
***
「ふふっ、私の勝ちだね」
黒羽さんの楽しげな声が、図書室に響く。
試験終了から一週間、全ての答案が返却され、今日、成績上位者の順位が張り出された。それを各々確認してから、図書室で黒羽さんと合流したところだった。
黒羽さんとの勝負の行方は、もはや言うまでもないだろう。俺は前回よりも大きく順位を伸ばし、一桁台に滑り込んだ。そして、やはり黒羽さんは圧倒的で、他の追随を許さないぶっちぎりの一位。
あれだけ俺に教えていたというのに、どうなっているのか不思議なところだ。けれど、重要なのはそこじゃない。
「いいんだよ、ちゃんと条件はクリアしたんだから。これであの件は許してくれるんでしょ?」
「もちろん。というか……別にもう怒ってないんだけどね。でも、勝負は勝負だもん。ちゃーんと報酬はもらうからね」
「……わかってるよ。で、俺になにをさせたいの? できれば、あんまり難しくないことにしてほしいんだけど」
「えっと……それは、ね──」
急に、黒羽さんの声のトーンが落ちた。微かに俯き、言いづらそうに下唇を噛む。
「それは……?」
続きを促すと、黒羽さんは唇を解き、ポツリと呟いた。
「……名前」
「名前? 名前が、なに?」
「名前でね……呼び合いたいなって、思ったの。私たち、もうお友達のはずでしょ? でも、まだなんか他人行儀というか──もっと仲良くなりたいのっ。だからっ!」
バッと跳ね上がる、黒羽さんの顔。その勢いのまま、ただでさえ近かった距離がさらに詰まる。
「ねぇ、ダメ?」
「いや……ダメじゃないけど、そんないきなりだとちょっと照れくさいかなぁ、なんて」
「──約束したのに。このために、頑張ったのに……」
「うっ……」
そんな風に言われると、弱い。ほんのりと悲しげな黒羽さんの声が、俺の胸を締め付ける。
だって、俺との仲をもっと深めたいと言ってくれているのだ。そんなの、断れるわけがない。
それに、俺だって気持ちは同じだ。
なら、照れくさいなんて言っている場合じゃない。俺は深く息を吸い、吐き出す。
「……わかったよ」
「──本当っ? 私のこと、名前で呼んでくれるの?」
俺のひとことで、コロコロと変わる声のトーン。それがなんだか、愛おしい。どんどん黒羽さんに惹かれていく自分を、もう止められない気がする。
「うん。約束は、守らないとだから」
「じゃあ、じゃあっ! ねっ、私の名前、呼んでみて?」
グッと、顔が迫ってくる。鼻先が触れ合いそうになって、俺は思わず仰け反った。
……近い。近いって。
心臓が跳ね回る。呼吸すら苦しくて。
でも──
「……栞、さん」
どうにか絞り出した。
けれど、ツンと尖った唇が不満そうに俺を指していた。
「……むぅ、違う」
「あ、あれ? 俺、なんか間違った……?」
「……さん付けじゃ、嫌。呼び捨てがいい。やり直して」
「えぇ……それはハードル上がりすぎなんじゃ」
「約束、守るって言ってくれたもん」
「そうだけど……」
逃げ場はない。仰け反った分だけ、きっちり詰められる。
俺は《《栞》》の肩に手を置き、そっと押し返した。逃げるためじゃなく、向き合うために。栞に対してだけは、逃げたくなかったから。
俺のたった一人の友達。
いや、それ以上になってしまった人。
「……栞」
小さく呼びかけると、栞は固まった。どこか焦点の合っていないような瞳、震える唇からは吐息がもれる。
そして、数秒の間を空けて、弾けた。
「……うん、うんっ!」
「気に入って、もらえた?」
「うん、とっても」
栞は、新たな呼び名を噛み締めるように、胸に手を置いた。そこまで喜んでもらえたなら、勇気を出したかいがあった。
でも、まだこれで終わりじゃない。
「なら、次は……栞、の番だよ。呼び合うって、言ってたもんね」
「あ……そうだよね。そうだった。ちょっとだけ、待ってね」
すぅはぁと、栞は何度も深呼吸をする。スカートをキュッと握りしめ、震える唇を開く。
「──りょ、涼……」
吐息のような、甘く掠れた声。
その直後、栞の顔が、ボンッと音がしそうなほど真っ赤に染まった。
「えへ……言えた」
へにゃりと力が抜けたように笑う栞を見て、俺の理性はどこかへ飛んでいきそうだった。
名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいなんて。家族や親戚以外では、初めてだった。
でもこんなふうになるのは、きっと栞だから。
「ちょっと……なにか反応してよ。呼ばせるだけ呼ばせて、無視はひどいよ……」
「あ、うん……。その、えっと、ありがとう?」
「……ぷっ、変なの。私からお願いしたのに、なんで涼がお礼言うの?」
「しょ、しょうがないじゃん。そんな気分だったの!」
「そっか……。ねぇ、涼?」
また、栞が俺を呼ぶ。確かめるように、身体に馴染ませるように。
「うん、なに?」
「んーん、なんでもない。呼んだだけ」
栞がくすりと笑う。
やばい、可愛い……。
照れ隠しで、俺も。
「……栞」
「なぁに?」
「……俺も、呼んだだけ」
「もう、真似しないでよ」
「だって、呼びたかったから」
「じゃあ、しょうがないのかな」
「うん、しょうがない」
栞の笑い声がくすぐったい。
胸の奥がふわふわする。
「あのね、涼。これからもっと、もっと仲良くなろうね?」
「そう、だね」
ダメだ。もう誤魔化せない。
自分の気持ちには、嘘はつけない。
やっぱり……俺は、栞が好きだ。




