第12話 何気ない午後と、夏休みの計画
俺と栞がお互いの呼び名を改めてから、数日が経った。
最初は緊張しっぱなしだった俺も、さすがに少しずつ慣れてくる。それどころか、『栞』と口にするたびに、自分の心に栞の存在が刻まれていくような、不思議な感覚があった。
栞が『涼』と呼んでくれるのも、くすぐったさから心地よさに変わっていって。日を追うごとに、俺の中で栞が占める割合が大きくなっていく。
そんなある日の午後、五時限目の授業中。
期末試験という重圧から解放された教室には、どこかのんびりとした空気が漂っていた。
眠そうな目をこする人、こっくりこっくりと舟を漕いでいる人、潔く机に突っ伏して夢の世界に旅立っている人までいる。
俺も昼食後の満腹感で、瞼が重い。どうにか板書をノートに書き写してはいるが、穏やかな口調の古文担当のおじいちゃん先生の話が眠気を誘う。窓から差し込む陽射しも、温かくて──
俺も、寝ちゃおうかなぁ……。
つい、誘惑に負けそうになる。そんな時、俺は黒板から目を逸らし、最近できたばかりの友人へと向ける。
ちゃんと前が見えているのか心配になるほどの長い前髪を持つ女の子。彼女はしっかりと姿勢を正し、真面目に先生の話に耳を傾けながらノートを取っていた。
そんな姿を見ると、俺まで背筋が伸びる。
負けては、いられないよな……。
彼女の隣に並んでも、恥ずかしくない男でいたい。情けないところは、できるだけ見せたくない。今はまだ、友人としてだけど。
そう思うと、眠気は綺麗さっぱり消えていく。
こんななんでもない時間でさえも、栞は俺に力をくれる。きっと、こういうところも栞を好きになった理由の一つなんだろう。
***
「ねぇ、涼。さっきの授業中、私のことじーっと見てたでしょ?」
もうすっかり恒例となった、放課後の図書室での時間。隣に座った栞が、からかうように言った。
「いや、ちらっと目には入ったけど……そんなじっとは見てないって」
なんとなく、やましい瞬間を見咎められたような気がして、俺は言葉を濁した。
「えー? 本当かなぁ? すっごく視線感じたんだけどなぁ」
「気のせい、じゃない……?」
「嘘だもん。なんか眠そうにしてるなぁと思ったらこっち見て、それから真面目に授業受け始めたでしょ?」
うわ、はっず……。
全部バレてるじゃん。
……って、全部バレてるってことは、つまり──
「あのさ……。栞も、俺のこと見てたの?」
「んふっ、やっと認めたね。私もってことは、涼もそうだったってことだもんね」
「あっ……! いや、でも……栞も人のこと言えないじゃん!」
「私は最初から見てたこと否定してないもーんっ」
「あっ、開き直った!」
「だって、気になっちゃうよ。教室ではお話できないから、余計にどうしてるのかなぁって」
急に真剣な声になった栞に、俺は戸惑う。
俺だけじゃなかった。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
そんなことを言われたら、また。
「ふふっ。涼の眠そうな顔、可愛かったよ」
「ちょっ、やめてよ。男に向かって可愛いなんてさぁ……。恥ずかしいじゃんか」
「そう? 私的には褒めてるつもりだったんだけどなぁ」
栞は顎に手を当てて俯き、「むぅ……」なんて呟きながら考え込む。
その隙に、俺は小さくため息をついた。
まったく……。
可愛いのはどっちだよ。
最近の栞は、とにかく明るくなった。図書室にいる時限定ではあるが、コロコロと変わる表情が愛らしい。相変わらず、目元は前髪で隠れているのに。
好意を自覚してから、栞の一挙手一投足がやけに気になるようになってしまった。
しばらくして、栞はさらりと髪を揺らしながら顔を上げた。
「うん、涼があんまりいい気分じゃないなら控えるようにするね」
「あぁ、やめてくれるわけじゃないのね……」
「本当にそう思ったから言ったんだし、これからもうっかり出ちゃうかもしれないからね。その保険だよ。それよりも、私ね、涼と相談したいことがあるの」
またいきなり話題を変えてきたな。
けれど、これ以上の追撃は心臓に悪い。俺はこれ幸いと、話を合わせた。
「……相談って、なんの?」
栞はポカンと口を開き、やれやれと首を振った。
「そんなの決まってるでしょっ。夏休みのことだよ!」
「夏休み……。うん、もうすぐだよね」
「そうそう。だからね、今のうちに涼と予定を決めときたいなぁって」
「……予定? 俺と?」
思わず問い直すと、こくりと頷かれる。
「そうだよ。涼と、私の予定。長い夏休みの間、ずっと会えないなんて寂しいじゃない」
「……あ、う」
俺は思わず、言葉を失った。
……夏休み中にも、栞と会えるの?
もちろん、期待はしていた。
そういう打算込みで友達になろうと言ったのは、俺だ。
けれど、寂しいと思ってくれているのが、一番効いた。
「俺も……栞と会えないのは寂しいよ」
自然と、口からこぼれた。
「えへっ、嬉しい……。じゃあ──」
するりと、栞が身体を寄せてくる。ほんのりと熱を帯びた肩が押し当てられ、栞の髪から甘い匂いが香る。
まるで、俺の理性を丸ごと全部溶かそうとするように。
「涼の都合の悪い日、教えてくれる?」
「えーっと……毎年お盆に数日父さんの実家に行くくらいで、他は空いてるかな」
「私はね、最初の日だけはやることがあって無理なの。でも、それ以外はなにもないよ」
「ということは……?」
「たくさん、会えるね」
「……だね」
やばい、どうしよう。
友達ができた矢先に、こんな贅沢なことがあっていいのかな?
天にも昇りそうな気持ちになっていると──
「でも、遊んでばかりはいられないんだよね」
栞はそう言って、そっと俺から離れた。
「あー……。そういえば、死ぬほど課題出されてるんだった」
「せっかくのお休みなんだから、もう少し手加減してくれてもいいのにね」
「まったくだよ。ってことは、会えるのはそれが終わってからに──」
残念だけど、こればかりはしょうがないかと思いかけた瞬間、栞の声が割り込んできた。
「なに言ってるの? そんなの二人で協力してやったらいいだけでしょ。遊ぶのは、その後ってだけだよ」
「え、いいの? たぶん俺、助けてもらうばっかりになると思うけど」
「今更そんなこと聞く? 散々試験勉強手伝ってあげたのは誰だったかなぁ?」
「……栞だね。なら、またお願いしますってことで」
「はーい、お願いされます。でね、家が近いわけだし、どっちかのおうちでやるのがいいと思うの。図書館とかでもいいけど、こうやってお話したりはできないし、それ以外だとお金もかかっちゃうから」
栞は思いついたことを一つ残らず確かめるように、言葉を重ねていく。そして最後に、少しだけ躊躇いがちに付け加えた。
「それで私ね……まず涼のおうちに、行ってみたいなぁ……なんて」
「えっ。母さん、いつも家にいるけど……それでもいいの?」
「なら、ちゃんとご挨拶しないとだね。涼の、お友達です……って」
「……そっか。栞がそう言うなら、うん、構わない、かな」
「やったっ! えへへ、楽しみっ!」
あれ?
これでよかったのか?
母さんに挨拶なんてしたら、きっと──
いや、でも……。
栞が喜んでくれてる。それだけで、細かいことを考える余裕がなくなってしまう。
それからは、普段通りに予習復習をしたりして、時間は過ぎていく。
今年の夏休みが、どれほど栞一色に染められていくのか。この時の俺には、まだ想像もできていなかった。




