第13話 前を向く勇気と、決別のハサミ
◆side栞◆
涼と夏休みの約束を取り付けた日。興奮冷めやらぬまま帰宅した私は、自室に駆け込むとすぐさまベッドへダイブした。
夏休み中も、涼と会えることになった。
それだけのことで、胸の奥がそわそわと騒ぎ出す。
……って、浮かれてばっかりはいられないんだった。その前に、やっておかなきゃいけないことが、ううん、やっておきたいことがあるの。
せっかく空けてもらった、夏休みの初日。そこを有効に使わなきゃ。
私はベッドから跳ね起きて手早く部屋着に着替えると、自室を飛び出してリビングに向かった。
「ただいま、お母さんっ!」
「おかえり、栞」
出迎えてくれたお母さんは、いつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
「なんだか今日は帰ってくるなりやけに賑やかね。なにか良いことでもあった?」
「実は私ね……新しくお友達ができたの」
「あら、そうなの? どんな子なの?」
「えっとね……すっごく優しい人、かな。涼っていうんだけどね……」
「もしかして、男の子?」
「うん、そうだよ。ちょっと前から話すようになってね、私とお友達になりたいって、言ってくれたの」
「その子は、栞のこと……大事にしてくれそう?」
お母さんにじっと顔を覗き込まれて、胸がチクリと痛んだ。
お母さんは、きっとなにかを察してる。なるべく家族の前では普通に振る舞っているつもりだけど、それでも、バレていないわけがない。
深くは聞いてこないけど、この前髪のことだってそう。
心配かけてるなって、ずっと思ってた。だから、少しでも安心させてあげたい。
「うん。たぶん、だけどね」
「そっか……。良かったわね、栞」
ほら、やっぱり。
お母さんは、どこか安堵するように息を吐いた。
「そのうち……家に連れてくるから、お母さんにも紹介するね」
「会わせてくれるの? それは楽しみね」
「夏休み中、遊ぶ約束してるから。まずは一緒に課題を片付けてからだけどね。それで……私、髪を切ろうと思うの。涼のおうち行くことになってるんだけど……お母さんもいるらしいから、これじゃちゃんとご挨拶できない気がして」
前髪を払ってみせると、お母さんは複雑そうな顔をして、それを消しきれないまま小さく笑った。
「いいんじゃないかな。髪型を変えると、気分も変わるものね。いつにするか決まったら教えてね。私から継実に予約入れておいてあげる」
「実は……もう決めてるの。夏休み初日にしようかなって。継実さん、空いてるといいんだけど……」
「栞からのお願いなら、継実は休憩時間削ってでも喜んでやってくれると思うよ」
「空いてたらで大丈夫っ! さすがに申し訳なさすぎるもん」
いくら昔から知ってるからって、お母さんの親友だからって、それはわがままだよ。ただでさえ、継実さんは人気の美容師さんなんだから。
「はいはい、わかったわよ。なら、後で伝えておくね」
「うん。ありがとう、お母さん」
それから、ごめんなさい。
髪を切りたい理由、ちょっとだけ嘘ついちゃった。
***
待ち遠しい日々を乗り越えて、ついに夏休みがやってきた。その初日。
無事に予約が取れた継実さんの美容室へ向かう道中、私の脚はかすかに震えていた。
素顔を晒すのは、まだ怖い。
でも、逃げるつもりはなかった。
涼と、ちゃんと目を合わせたい。
その気持だけが、私の足を前に動かしていた。
到着してドアを引くと、カランとベルが鳴った。受付のカウンターでパソコンのキーを叩いていた女性が顔を上げ、私を見てにっこりと笑う。
「いらっしゃい、栞ちゃん。久しぶりだね」
この美容室の美容師であり、オーナーでもある継実さんだった。
「お久しぶりです、継実さん。今日はよろしくお願いします」
「あはは、そんな畏まらないでもいいのに。外、暑かったでしょ。ほら、奥涼しいから、座って座って」
継実さんはカラカラと笑いながら、席へと案内してくれる。カット台に腰を下ろすと、目の前の大きな鏡に、鬱陶しいほど前髪の長い女が映った。
……これが、今の私なんだよね。
でも──
「さて、お客さん。一応話は文乃──お母さんから聞いてるけど、どんな感じにしたいか教えてくれるかな?」
「目が……隠れないようにしてほしいんです。あとは、継実さんにお任せで」
それも今日まで。
私は決意が鈍らないように、服の裾をぎゅっと握りしめた。
「オッケー、お任せコースね。了解っ! とびっきり可愛くしてあげるから、まっかせなさーい」
「……はいっ」
ふわりとクロスがかけられて、いよいよ施術が始まる。私はそっと目を閉じた。
継実さんになら、安心して任せられる。小さい頃から、ずっと髪のお世話をしてくれていた人だもん。もしかすると、私よりも、私の髪のことを知っているかもしれない。
だから……大丈夫。
最初に、霧吹きで髪が濡らされた。
継実さんの指先が、前髪に触れる。
櫛で梳かれて、冷たいハサミの気配が近付いてきた。
サクッと、軽快な音が耳に響く。
バサッと、重たい音が膝に落ちる。
これで、もう後には引けない。そう思うと、身体の芯から震えてきそうになる。
そんな時、ふと頭に涼の顔が浮かんだ。
涼はなにも言わず、ただ私を見つめてくる。穏やかな微笑みを浮かべて。
気付けば、震えは止まっていた。
……ずるいよ涼。
そばにいない時にまで、こんなことされたら、私──
もう、戻れないよ。
ちょっとだけ涙が出そうになって、私はあくびで誤魔化した。
***
「ほい、完成っと」
継実さんの手が、ポンと肩を叩いた。そして、落ちた髪を払いながら続けて言う。
「栞ちゃん、仕上がり確認してくれるかな。気に入らないところがあれば、手直しするからさ」
カットの最中、私はずっと目を閉じていた。シャンプー台に移動する時でさえ、鏡は見なかった。
ゆっくりと瞼を開けると、鏡の中の自分と目が合った。
無防備にさらけ出された顔。
隠せるものは、もうなにもない。
あまりの心細さに、一瞬だけ呼吸を忘れた。
……でも、嫌じゃない。
涼が、私らしくしていいって、言ってくれたから。
「……さすが継実さんですね。希望通りです」
「なははっ! まぁ、私にかかればこんなもんよ。ところでさ──」
クロスを外しながら、継実さんは内緒話をするように私の耳元で囁く。
「……栞ちゃん、好きな人できたでしょ?」
「なっ、へっ?!」
ずっと涼の顔ばかり思い浮かべていた私は、思わず素っ頓狂な声を上げていた。こんなの、白状しているようなものなのに。
「ありゃ、ちょっとカマかけてみただけなのに……、その反応は本当に?」
「うぅ……継実さんの意地悪。できたのはお友達、だもん。一応……男の子だけど」
「なるほどなるほど。ということは、髪を切ることにしたのはその子のおかげってわけだ?」
「まぁ……それは、はい……」
「ふぅん、そっかそっかぁ。なんか安心したよ」
継実さんはほっと息を吐いて、後片付けを始めた。ほうきで床に散った髪を掃きながら、さも今思い付いたように言う。
「あっ、そうだ。もしうまくいったらさ、いつかその子も連れておいでよ。栞ちゃん好みに格好良くしてあげるからさっ! ……なーんて、私がどんな子なのか気になってるだけだけどね」
「……そんな、うまくいきますかね?」
「大丈夫っ! 今の栞ちゃん、顔色も明るくなったと思うから、きっとちゃんと見てもらえるよ」
パシンッと背中を叩かれた。
自爆した上に、励まされちゃった……。
でも、カラッと気持ちよく笑う継実さんを見ていると、ちょっとだけ自信がわいてくる。
……今の私を見たら、涼はどんな顔するんだろ。
その前に、私だって気付いてもらえるかな?
ますます明日が楽しみになってきちゃった、かも。
お会計を済ませて、継実さんにお礼を告げて外に出ると、夏の強い日差しが目にしみる。
久しぶりに前髪のフィルターを通さずに見た世界は──
いつもより明るくて、色に溢れていた。
これで、涼と同じ景色が見られるよね。




