第74話 食事のお世話と、底知れぬ熱
一瞬、母さんがなにを言っているのか理解できなかった。
帰省はする。
でも、俺だけ置いていく……ってことは。
「……つまり、俺は留守番ってこと?!」
「最初からそう言ってるじゃない。ちゃんと話聞いてなさいよ」
「聞いてるけどっ! でも、なんでそんな話になってるの?」
「だって、あんたを連れてっちゃったら栞ちゃんが可哀想じゃない。この夏休み、毎日欠かさず涼に会いに来てくれてるのよ? あ、でもその前に一応確認しておくけど──栞ちゃんのおうちは、そのあたりの予定はなにかあったりする?」
「うち、ですか? うちは特になにもないですよ。父の休暇もお盆とずれてますし、両親の実家はどちらも近いですから」
「ほらねっ!」
……いや、ほらねじゃないんだって。
なんで栞の家の予定を確認するのが後なんだよ。
母さんの適当さには呆れてものも言えないが、これは俺にとって嬉しい誤算だった。けれど、栞は少し困ったような顔をしていた。
「涼が残ってくれるのは嬉しいんですけど……。私のせいでご家族の予定に穴を空けさせてしまうのは、なんだか申し訳ないというか……」
「いいのいいの。こないだお義母さん──涼のおばあちゃんと話したんだけどね、付き合いたての二人を引き離すなんて絶対ダメだって言われちゃったのよねぇ。それでも栞ちゃんが申し訳ないって言うなら──一緒に行っちゃう? 一人くらい増えたって、全然構わないけど」
「……え、それはちょっと。さすがに、心の準備が……」
「でしょー? なら、涼はお留守番決定ってことでよろしくっ!」
「ちょっと待てって。母さん、ばあちゃんになに話したんだよ?!」
あまりにもさらっと言うから、聞き逃すところだった。母さんとばあちゃんの仲が良くて、ちょくちょく連絡取り合ってるのは知ってるけど──
「なにって、決まってるじゃない。涼に可愛い彼女ができて、楽しそうにイチャイチャしてるって言っただけよ」
「……おい」
事実かもしれない──いや、事実だけど!
なに勝手に話してくれてるんだ、この母さんは。
……なんて言っても、母さんにはまったく響かないんだよなぁ。
俺は諦めて、大きくため息をついた。
「はぁ……まぁいいや。で……その間、俺の食事ってどうすればいいのさ? 小遣いくれるなら、適当にコンビニとかで済ますけど」
そもそも、俺は料理なんてまともにしたことがない。小中学校時代の調理実習でも、輪に入れずに後ろでオロオロしながら眺めているうちに終わっていたし。
というわけで、食事に関しては死活問題──のはずなのに、今度は母さんがため息をついた。
「……バカねぇ、あんたは。なんのために私が栞ちゃんにもこの話をしたと思ってるの?」
「なんのためって……なんのため?」
「本当にわからないのね……。とにかく、ここからが相談の本題よ」
そう言って、母さんは俺と同じように首を傾げている栞に向き直った。
「私がいない間、涼のご飯のお世話をしてあげてくれない? もちろん、栞ちゃんの分の食費も渡すわ」
「私が……涼のご飯の、お世話を?」
栞は確かめるみたいに母さんの言葉を繰り返して、それからハッと息を呑んだ。
「わ、私がそんな大役を任されてもいいんですか……?!」
「大役なんて大袈裟ねぇ。大丈夫よ、こないだ一緒に作ったじゃない。だから、栞ちゃんがやれる子だってことはわかってるわ。朝はパンでも食べさせておくから、お昼と夜をお願いできないかな?」
「えっとえっと……私でいいんでしょうか?」
「むしろ、栞ちゃんにしか頼めないことよ。それにね、これが一番大事なんだけど──」
母さんは、横目で含みのある視線を俺に送ってきた。そしてまた、栞を見る。
「栞ちゃんが作ってくれたら、涼がすごく喜ぶと思うのよねぇ」
栞が俺を見る。
それはもう、真剣な眼差しで。
「……本当? 涼は、私がご飯作ったら……嬉しい?」
「そりゃ嬉しいに決まって──」
「やりますっ! やらせてくださいっ!」
俺が言い終わるよりも前に、栞は身を乗り出して返事をした。
「そうこなくっちゃっ!」
母さんが、パチリと手を叩いた。
なぜか栞と母さんは、がっちりと手を取り合い握手を交わしていた。
「そうと決まれば、まずは栞ちゃんにご両親の許可をもらってもらわないと。いつもより帰りが遅くなるだろうし、涼に送らせるからって伝えておいてね」
「わかりました!」
俺を置き去りにして、どんどん話が進んでいく。
でも、そっか……。
会えないと思ってた期間も栞に会えて、また手料理を作ってもらえるんだよな。
しかも、その間は栞と二人きり──
……うわ、やば。
顔がニヤける。
もう今から楽しみすぎるんだけど。
俺は、栞と母さんの弾む会話を聞きながら、密かに胸を高鳴らせていた。
***
母さんの話が終わった後、栞と二人で俺の部屋に場所を移した。
栞はずっと上機嫌で、ドアを閉めた瞬間にぴょんと飛びついてきた。反射的に受け止めはしたものの、勢いを殺しきれずにバランスが崩れた。
「わっ……!」
「きゃっ……!」
そのまま、ベッドに倒れ込む。気が付くと、俺は栞に覆い被さっていた。
「もーっ! ちゃんと受け止めてよぉ」
「ごめんって。というか、栞がいきなり飛びつくから」
どちらからともなく、笑いがもれる。俺たちは、おでこをくっつけてくすくすと笑い合った。
「……それで、涼は私をベッドに押し倒して、なにするつもりなのかなぁ?」
「これは不可抗力というか──」
その時、栞の目が俺をからかうように細められた。それがなんだか悔しくて、栞の目をじっと覗き込む。
……朝からずっと我慢してたし。
これくらいなら、いいよね。
「……こうするんだよ」
俺は栞の唇に一度だけキスを落とした。
栞はパチパチと瞬きをして、俺の背に腕を回す。
「これだけ? 一回しか、してくれないの? 約束だもん……もっと、して?」
「……いいよ。何度でも、するから」
キスをするたび、栞は嬉しそうに喉を鳴らす。
抱きしめて、キスをして、頭を撫でて、笑って。
もう、どっちがどっちを甘やかしているのかもわからなくなっていた。
「ねぇ、涼」
「なに?」
「水希さんたちがいない間──いつもより、ずーっといっぱい一緒にいられるね?」
「……そうだね。文乃さんと聡さんが許してくれたら、だけど」
「それは私がどうにかするよ。えへへ、楽しみだなぁ」
とろんとした声でそう呟く栞の瞳の奥で、底知れない期待と熱が渦巻いているように見えた。その熱に触れるだけで、理性が少しずつ溶かされていくような気がした。




