第73話 無意識と、母さんの悪巧み
栞と揃って玄関をくぐると、すぐ目の前で母さんが腕を組み、眉間にしわを寄せて仁王立ちしていた。なんだか圧がつよいが、帰宅したからには言うべきことがある。
「……ただいま、母さん」
「えぇ、おかえりなさい──じゃないわよっ! 昼過ぎには帰るって言うからお昼用意して待ってたのに、今何時だと思ってるの?!」
「えっと──」
母さんの視線から逃れるように、俺はスマホで時間を確認した。
「……うわっ、もう二時過ぎてるじゃん」
予定よりも遅くなったのはわかっていたが、まさかこれほどとは。
「そうよ! いったい、こんな時間までどこほっつき歩いてたわけ?」
「ほっつき歩いてたって……学校に決まってるじゃん。ちょっといろいろあってさ」
「いろいろってなによ?」
「……いろいろはいろいろだよ。ね、栞?」
助けを求めると、母さんの剣幕に若干引いていた栞も乾いた笑いをもらした。今日のあれを説明しろと言われて困るのは、栞も同じらしい。
「あ、あはは……そうだね。あの、水希さん。遅くなってしまったのは、ごめんなさい。でも、道草食ってたわけじゃなくて……これでも私たち、終わってすぐに帰ってきたんですよ」
「あら、そうだったの? 栞ちゃんが言うなら本当にそうなのね」
「おい……扱いの差!」
「仕方ないじゃない。涼よりも栞ちゃんの方がしっかりしてるんだし」
「……ぐっ」
反論はできなかった。
俺も、栞をしっかり者だって思っているから。
「それより、二人ともお腹すいたでしょ? 遅くなったけど、ご飯にしましょうか」
母さんがそう言うと、まるでタイミングを見計らったように隣から「くぅ……」と小さな音が聞こえてきた。その直後、栞が慌てた様子でお腹を押さえ、真っ赤な顔で見上げてくる。
「……き、聞こえた?」
「え、うん。可愛い音がしたね」
ただの腹の音。
でも、栞のものだと思うと、それすらも愛おしく感じてしまう。
けれど、栞は相当恥ずかしかったらしい。顔をさらに赤く染め上げて、俺の胸をぽこぽこと叩く。
「……うぅ、恥ずかしいよぉ。お願い涼、忘れてぇっ!」
「忘れろって、そんな無茶な……。というか、生理現象なんだから仕方ないって。それにさ、お腹が空くのも、今日頑張った証じゃない?」
「……それは、そうかもしれないけどぉ。でも、恥ずかしいものは恥ずかしいのぉっ!」
涙目でぽこぽこしてくる栞が可愛すぎて、俺はもう動くことすらできなくなってしまった。そんな俺たちを見て、母さんは呆れたようにため息をついた。
「……ご飯だって言ってるでしょうが。いつまでもイチャついてないで、涼はさっさと着替えてきなさい。それから栞ちゃん。悪いんだけど、ご飯温め直すから手伝ってもらえる?」
母さんはそれだけ言うと、一人でさっさとキッチンの方へ行ってしまった。
ようやく栞のぽこぽこ攻撃が止まったので、俺はひとまず栞の頭を撫でておいた。聞いてしまったお詫び、というわけじゃないけれど。
「……涼? もしかして、頭撫でとけば私の機嫌が直ると思ってなぁい?」
「思ってないけど……直らないの? 顔、緩んでるよ」
唇はつんと尖っているが、頬が引きつるみたいにひくひくと動いてる。たぶん気を抜けば、ふにゃふにゃになることだろう。
「それはっ……! 涼によしよしされると、勝手になっちゃうだけだもん……」
「じゃあ、どうしたら直るのか、教えてくれる?」
栞は俺の目をじっと見つめながら考えて、それから控えめにぽつりと呟いた。
「……さっきの甘えさせてくれる約束、もっといっぱいにして」
そのお願いに、俺は思わずくすりと笑いをもらした。
「いいよ、それくらい。栞は本当に甘えん坊だよね」
「むぅーっ! 誰のせいだと思ってるの?」
栞はもう一度俺の胸をぽすんと叩いて、その勢いのまま腕の中に飛び込んできた。
「……涼が私をこんなふうにしたんだもん。だから、ちゃんと責任取ってくれなきゃヤダ」
「俺のせい、なの……?」
「そうでしょ? 今だって、すぐぎゅってしてくれるし」
「いや、これは身体が勝手に」
「……無意識?」
「うん」
だって、栞は大事な彼女だから。
どんな時でも、受け止めてあげたいって思ってるから。
俺の返事が気に入ったのか、栞は嬉しそうにぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「……そっかぁ、んふふっ」
栞の笑い声が、くすぐったい。
このまま、俺の部屋に連れていきたくなる。
でも──
「……二人とも、まだやってるの?」
母さんの呆れた声、再び。
俺はゆっくりと、栞を腕から解放した。
「また怒られそうだから……続きは後でね」
「はぁい」
残念そうな栞を残して、俺は自分の部屋へと駆け込んだ。
……やばいなぁ、俺。
油断すると、つい栞に夢中になりすぎる。
せめて、ある程度はコントロールできるようにならないと、とは思うけど。
……できるかな?
……。
できない未来しか見えなくて、俺は苦笑するしかなかった。
***
「さて──そろそろ、朝言ってた話をしましょうか」
食事を済ませてお茶を飲んでいると、母さんがやけにかしこまった様子で話を切り出した。
「なんか、俺たちに相談ってやつだよね?」
「そうそう。それで──もうすぐお盆じゃない?」
「あぁうん。今年もじいちゃんち行くんだよね?」
数日とはいえ、栞と会えなくなるのは普通に寂しい。とはいえ、毎年恒例の家族の行事なので文句を言うこともできない。
まぁ、その間は通話で我慢するしかないよな。
なんて思っていたのだが──
「もちろん行くんだけどね、今年は涼だけ置いていこうと思ってるのよ」
どこか悪巧みをしているような顔で、母さんはそう言った。




