第72話 楽しかった余韻と、帰り道
結局、俺たちが解放されたのは、ずいぶんと時間が経ってからだった。
先生の暴走は、いつの間にかクラス全体を巻き込んだ大告白大会に発展していた。そこでは漣と橘さんに続いて数組のカップルが誕生したりもしたわけだが──
そのせいで、変な方向に盛り上がり、悪ノリが加速していった。
楓さんが「愛してるぜ、しおりんっ!」なんて言い出して、また男子たちが栞に告白しようとしたりして。
……まぁ、栞が絶対零度の視線で黙らせてたけど。
今まで知らなかったが、栞は静かに怒るタイプらしい。俺が向けられたわけじゃないのに、栞の冷たい視線に背筋がヒヤリとした。
そうして最終的に、ふざけた男子たちは、楓さん共々、栞に頭を下げる結果となった。
そんなこんなで、俺と栞が揃って校門を出る頃には、すでに運動部の声がグラウンドから響いていた。俺は身体に溜まった疲労感を全部吐き出すように、大きくため息をついた。
「はぁ……なんだかすっごく疲れた」
「本当にね。私も、まさかあんなことになるとは思ってなかったもん」
「ほとんど先生のせいだけどさ、みんなもノリが良すぎるんだって」
「そうだねぇ。でも──ふふっ」
栞は俺の左腕に擦り寄りながら、小さく笑った。
「私は、ちょっと楽しかったよ」
「……そう?」
「うん。だって、ずっと学校なんてつまんない場所だと思ってたから。行くのが当たり前だから、行ってただけっていうかね。でも今日はね、みんなで騒いで、盛り上がって。そうでもなかったんだなぁって思ったよ」
「……言われてみれば、俺も」
悪くない時間だったのかもしれない。
栞との馴れ初めを語って恥ずかしい思いもしたけれど、それでも──
これまでは、いつも隅っこで小さくなっていることしかできなかった。
それが今日は、俺が──俺と栞が、クラスの中心にいた。
バカ騒ぎをして、気付けば自然に笑っていたりして。
みんなの歓声が、まだ耳の奥の方に残ってる気がする。
「あっ、でもね!」
「うん?」
「……つまんなかったって言ってもね、涼と一緒にいる時間だけは、楽しかったんだよ? そこは勘違いしたらダメだよ?」
なにも言っていないのに勝手に取り乱す栞が可愛らしくて、俺はぎゅっと手を握り直した。
「わかってるよ。それは俺も同じだから」
「……うんっ」
夏の昼間の日差しが燦々と降り注ぐ。
その光が、栞の滑らかな頬で柔らかく弾けていた。
放課後の図書室で見てきたものとは、どこか違う栞の横顔。
その笑みも、最近では見慣れつつある。
けれど、決して見飽きることのない笑みだった。
電車に乗り込み、並んでシートに身を沈めると、栞は俺の肩に頭を預けて小さくあくびをした。
「ふぁ……」
「栞、眠たくなってる?」
「んー……ああは言ったけど、なんだかんだで私も疲れちゃったみたい」
「そりゃそうだよ。慣れないことたくさんしたんだから。よく頑張ったね、栞。偉いよ」
ぽんぽんと頭を撫でると、栞の頬が嬉しそうに緩んだ。そのまま、潤んだ瞳で見上げてくる。
やっぱり栞は、眠たいとより一層甘えん坊になるみたいだ。
「んふっ、褒められちゃったぁ。でも、そんなんじゃ全然足りないの。ねぇ、涼──」
「……な、なに?」
「帰ったらぁ、いっぱい甘えさせてね? 疲れがぜーんぶ吹き飛ぶくらい、いーっぱい」
「もうすでに甘えてるのは、誰なのかなぁ?」
「こんなの甘えてるうちに入らないもーんっ」
もし栞が本気で甘えてきたらどうなるのか──
それを考えると、少しだけ怖い。
それでも、拒もうという気にはまったくならなかった。
「というか、俺も普通に疲れてるんだけどさ……」
「じゃあ、涼のことは私がいっぱい甘やかしてあげるね。それで公平でしょ?」
「……まぁ、そんなのなくても、栞と一緒にいるだけで癒されてるけどね」
言いながら、俺は照れ隠しで栞の髪をわしゃわしゃと撫で回した。栞は俺の手から逃れようと、くすぐったそうに身体をくねらせた。
「もうっ、そんなにしたら髪がくしゃくしゃになっちゃうよぉっ!」
「でも、嫌じゃないでしょ?」
「……いじわるぅっ! 言わなくてもわかってるくせにぃ」
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、この続きは帰ったら……ね?」
「えへ、楽しみっ! なんだけど──」
栞は顔を綻ばせたまま、少しだけ言い淀んだ。
「……だけど、なに?」
「ほら、水希さんが朝言ってたやつだよ。私たちに相談って、なにかな?」
「あー、そういえばそんなこと言ってたっけ。なんなんだろうね?」
「涼がわかんないなら、私にもわかんないよ。一応お母さんには遅くなるかもって連絡しといたけど」
「うーん、変なことじゃなきゃいいけどね」
「そこは水希さんだし、大丈夫じゃない?」
「いや、母さんだから安心できないんだって……」
母さんはいっつも余計なことばっかり言うんだから。
俺の扱いは雑だし。
栞を可愛がってくれるのは、ありがたいけど。
「まぁ、考えてわかるもんじゃないし、そっちも帰ってからってことだね」
「はぁいっ」
電車を降り、逸る気持ちで家路を急ぐ。
その途中──
「あぁっ!!」
突然、大きな声をあげて栞が足を止めた。
「……どうかしたの?」
「どうかしたのじゃないよっ! 大事なこと、忘れてない?」
「大事なことって……なんかあったっけ?」
「今日提出する予定だった課題っ! まだカバンの中だよ!」
「あっ、本当だ」
提出するつもりで持っていったのに、カバンすら開けていない。
「ねぇ涼……今からでも学校戻って出してきた方がいいかなぁ?」
「……もういいんじゃない? 出してないの、うちのクラス全員だし」
「そ、そっか、そうだよね……うん、そうする」
真面目な栞としては、まだ後ろめたさがあるらしい。
でも、今から戻っていたら、栞とゆっくりする時間が減ってしまう。
だから、俺は少し強引に栞の手を引いた。
「そんなことより早く帰ろ。ただでさえ遅くなってるし、母さんも待ってるだろうしさ」
「あっ、待ってよぉ」
俺たちは、手を繋いだまま駆け出した。
夏休みは、残り半分。
次は、栞となにをしようか。
次は、どんなことが起きるんだろう。
栞といるだけで、未来が全部楽しみになる。
俺たちは意味もなく笑い合いながら、家に駆けこんだ。
まさにこの時──
課題を回収し忘れた連城先生が、職員室で他の先生方に叱られていることなど知らずに。




