第67話 クラスの洗礼と、深い黒
楓さんに絡まれている栞を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
……よかった。
まさかこんなにもうまくいくとは思ってなかったけど、こんな光景が見られたなら、頑張ったかいがあるというものだ。
そんなことを考えていると、不意に横からガっと乱雑に肩に腕が回された。驚きつつ横を向くと、そこにはニヤけた遥の顔があった。
「おう涼、やっぱお前はすげぇやつだよ。いきなり頭下げた時はさすがに驚いたけどな」
「いや……うん。なんか、こうした方がいいかなって思ってさ。でも、遥のおかげだよ。ありがと、助け舟出してくれて」
「いいってことよ。というか、あんなの聞かされてほっとけねぇって。俺と彩は一足先に事情を聞かせてもらってたしな」
遥はけらけらと、気持ちよく笑った。けれど、すぐに声をひそめて耳打ちをしてきた。
「でもまぁ……大変なのはこっからだぜ?」
「……大変って、なにが?」
「そりゃ決まってんだろ。ほれ、見てみろよ」
遥がくいっと顎で指した方に目を向けてみると、栞の周りに人だかりができていた。やけに騒がしい声も聞こえてくる。
「てかさ、黒羽さんってこんな可愛かったんだな。前まで顔隠してたからわかんなかったけど」
「さっきの話ってさ、これからは話しかけてもいいってとこだよな? なら、まずはお友達から──」
「いやいや、友達とかいいから俺と付き合わない?」
「おまっ、抜け駆けすんなって!」
「うっせ! こういうのは早い者勝ちなんだよ!」
「いや、あの……ちょっと!」
……は?
なにこれ。
いつの間にこんなことになってんの?!
栞はもう俺の彼女だから、早い者勝ちとかないんだけど!
ほんの一瞬目を離しただけなのに、栞は男子に囲まれて、普通に口説かれていた。
腹の底に、どろりとした黒い感情が渦巻く。慌てて飛び出そうとした時、今度は女子たちの声が響いた。
「うわ、男子必死すぎ。キモっ!」
「ほんとだよねー。でもまぁ……気持ちはわからなくはないけど」
「ねー。ここまでだと、もう嫉妬する気も起きないし」
「でもさぁ、さっきの見てワンチャンあるかもとか思うのヤバくない? 黒羽さん、高原くんと付き合ってんでしょ?」
「えっ?! あの、それは……」
「あっれー? 違った?」
栞が言い淀むと、その女子は意地の悪い笑みを浮かべて俺を見た。
「そういえば、高原くんもすっごくかっこよくなったよね?」
「え……俺?」
「うんうん。髪型も爽やかになったし、よく見ると可愛い顔してるしさぁ」
「あ、わかる! 前と全然違うっていうか、普通にイケてるよね!」
……いや、ちょっと待って。
どうしてこうなった?!
今度は、俺が女子たちから言い寄られていた。さっきまで隣にいた遥は、知らないうちに俺から距離を取って、腹を抱えて笑っている。
「でさぁ、私ちょうどフリーなんだよねぇ。だから、学校終わったら二人で遊びに行かない?」
「あーっ、ずっるーい! ウチも行くーっ!」
妙な圧に、背中に変な汗が流れた。じりっと後退りする。それが引き金になったみたいに、栞の怒号が飛んだ。
「だめぇぇぇえええーーーっ!!」
叫びながらすっ飛んできた栞は、そのまま俺にがっちりと抱きついた。その姿がやけに必死そうで──逆に俺は少しだけ安心した。
それでも、栞はキッとした目で顔を上げた。
「涼は私の彼氏なのっ! だから、ダメっ!」
鬼気迫る声だった。その迫力に、俺の周りにいた女子たちも、栞を口説いていた男子たちもたじろぐ。そして、俺に言い寄ってきた女子が降参するように両手をあげた。
「ご……ごめんって。冗談だよ、冗談。素直に認めないから、ちょっとからかってみただけだって」
「……本当?」
「ほんとほんとっ! 横取りなんてしないから、安心してよ」
「……わかった。私も怒鳴ってごめんなさい」
それから栞は、じっと俺を見上げてくる。その瞳はハイライトが消えたみたいになっていて、深い海のように静かで、底が見えないくらい黒い。俺は蛇に睨まれた蛙のように固まった。
「……ねぇ、涼?」
「な、なに……?」
「だから、私心配してたんだよ。涼が浮気なんてしたら──私……」
「しないしないっ、絶対しないって!」
「絶対だよ?」
「……わかってるよ。俺には、栞だけだから」
そう言うと、ようやく栞の瞳に光が戻った。
栞は俺の胸元に頬を寄せて嬉しそうに微笑む。その表情はたまらなく愛らしいけれど、俺の心臓はバクバクと鼓動を繰り返していた。
……怖っ!
浮気なんて、そもそもするつもりなかったけど──
栞だけは、絶対に不安にさせないようにしよう。
俺はそう固く心に誓った。
あとはまぁ……俺も余計な心配はしたくないし。
それに、栞にだけ言わせるのも気が引けるというか。
栞に抱きつかれたまま、俺はぐるりと周りを見回した。
「えっと、さ……見ての通り、俺たち付き合ってて。だから──悪いけど、さっきみたいなのはもうやめてほしいな」
「……涼。ちゃんと言ってくれて、嬉しいよ」
「うん。だってさ、俺、栞が好きだから」
「えへへ。私も好き、大好き」
すりすりと頬擦りをされて、俺もたまらずに栞を抱き寄せた。
謝った直後にこんなことをしたら、敵を作ることになるかもしれないのに。
でも──
あちこちから、どっと声が上がった。
「うおぉぉぉっ! 羨ましいぞ、ちくしょうっ!」
「高原ぁっ! そこ代われぇ!」
「きゃぁーっ! めっちゃラブラブじゃんっ!」
「やーんっ! 尊いっ!」
からかいや、祝福するような言葉が飛び交う。
そんな中で、栞はさらに強く、ぎゅうっと抱きついてくる。外野はうるさいけれど、栞と抱き合っていると、それも遠くなっていくようだった。
「あらら。しおりんも高原くんも、完全に二人だけの世界じゃん。ところでさぁ、遥?」
「あん? なんだよ?」
「もしかして、二学期が始まったら毎日これを見せられるのかな?」
「かもなぁ……。でもまぁ、いいんじゃねぇの。一学期よりも面白くなりそうだしな」
「それもそっか。しおりんも幸せそうだしねぇ」
喧騒は鳴りやまない。
むしろ、いつもより騒がしい朝。
今日はその中心に、俺と栞がいる。
やがて、始業のチャイムが響く。
それと同時に、教室の前側の引き戸がスパンっと開いた。
「おっはよー! 久しぶりだけど、みんな元気してたーっ?」
相変わらずのハイテンションで登場したのは、我らが担任の連城先生だった。先生は、ドアを開けたままの姿で動きを止めた。
「って……なに、この状況?」
その声に反応する人は、誰もいない。
教室の中は、もう誰が何を言っているのかもわからないほど、騒然としていた。
「ちょっとぉっ! 無視しないで、誰か教えてーっ?!」
俺は栞の耳元に口を寄せて、そっと囁いた。
「……栞、先生来たみたいだけど?」
「やだ」
「……離れないの?」
「うん、もうちょっとだけ」
「……しょうがないなぁ」
まぁ……こういうのも悪くないか。
少し恥ずかしい気はするけど、今日くらいは。




