第66話 謝罪と受容
クラスメイトたちの絶叫が止み、またざわめきが戻ってきた。
栞の正体は、大きな驚きとともに認識された。けれど、根本的な問題は解決していない。
……問題は、ここからだ。
俺は、ずっと考えてきた。
どうすれば、栞がもう人を怖がらずに済むのかって。
難しいことはわからないけど──
逃げたままじゃ、きっとなにも変わらない。
だから、俺は椅子から立ち上がり、栞よりもほんの少しだけ前に出る。
正直、怖い。
人前で話すのは、俺が最も苦手としてきたものだ。
でも、栞のためだと思えば頑張れる。
……いや、違うか。
栞が隣にいるから、頑張れるんだ。
息を吸い、ざわめきにかき消されないように、少しだけ声を張った。
「……あ、あの、みんな。ちょっとだけ、聞いてほしいことがあるんだけど……いいかな?」
栞に向いていた視線が、一気に俺に集まった。
喉がひりつく。
脚が震える。
それでも、俯くことだけはしなかった。
「今まで、ごめん」
言うと同時に、深く頭を下げる。
情けなくてもいい。みっともなくたって構わない。栞だけは、俺がすることの意味をわかってくれるはずだから。
「俺……人と話すの苦手で、みんなのこと避けてた。話しかけてもらっても、どう返せばいいかわかんなくて……」
頭を下げたままでも、クラス中の視線が突き刺さってくるのがわかる。
わずかに声が震えた。
嫌な汗が額を伝う。
うまく息が吸えない。
今すぐこの場から逃げ出したいくらいなのに、不思議と言葉だけは止まらなかった。
「でも……変わりたいって思ってる。いきなりこんなこと言われても困るかもだけど……このクラスでやり直したくて」
一度だけ、息を飲み込む。
「これからは、もう逃げない。ちゃんと向き合うから……。だからさ、チャンスをもらえないかな……?」
恐る恐る、ゆっくりと頭を上げる。勢い任せだったけれど、言いたかったことは言えたはずだ。
ざわめきは完全に消えて、教室はしんと静まり返っていた。周りを見回すと、呆気にとられたような顔がずらりと並んでいる。
最後に栞と目が合う。栞は柔らかく微笑んでいて、その瞳がまるで『かっこよかったよ』と言ってくれているようだった。
◆side栞◆
涼が突然立ち上がって、クラスのみんなに頭を下げたのを見て、すごく驚いた。
でも、すぐにその意味を理解した。
これは、私のためにしてくれたことなんだって。
いつだって、涼は私のことを考えてくれる。
涼の背中は不器用で、優しくて。瞬きをするのも忘れるくらい、目が離せなかった。
……そんなことされたら、もっともっと好きになっちゃうのに。
なんて、今はそんなこと考えてる場合じゃないよね。私も、やるべきことをちゃんとやらなきゃ。
だって、どうすればいいのかを涼が教えてくれたから。
このまま涼に全部任せるなんて、絶対ダメ。ここでなにもしなかったら、きっともう、涼の隣に立てなくなっちゃう。
まだ、涼に手を引いてもらわないとダメダメな私だけど──
一歩だけ踏み出して、涼の横に並ぶ。
並んだ瞬間、涼と同じところに立てた気がした。
胃がひっくり返りそうなくらい、緊張してる。
できることなら、逃げ出したい。一瞬でも気を抜けば、教室から飛び出してしまいそうになる。
それを無理やり抑え込んで、私も涼に倣って、思いっ切り頭を下げた。
「私も……ごめんなさいっ!」
ちょっとだけ、声が掠れた。
それでも、次の言葉をどうにか吐き出す。
「入学早々、みんなのこと拒絶するようなこと言って……ごめんなさい。中学の時に……いろいろあって。それで人間不信みたいになってて──」
喉がつっかえて、言葉が途切れた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、勝手に涙があふれ出す。
思わず俯きそうになった時、背中になにかが触れた。震えそうになる背中に、そっと触れる温もり。それだけで、崩れかけていたなにかが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
それが涼の手だって気付くのに、そんなに時間はかからなかった。少しずつ、呼吸が楽になっていく。
「あのね、私……りょ──高原くんと話すようになって、少しだけ平気になれたの」
涙で滲む視界の中で、前だけを見る。
「本当はまだ怖いけど……それでも、もう逃げたくない。あの時は、関わらないでなんて言っちゃったけど……でも、今は違うの」
震える心を奮い立たせて、最後まで言葉を振り絞る。
「だから……私にも、チャンスをください。……お願いします」
言い終えると、また教室にわずかな静寂が落ちた。
その次の瞬間──
「ねぇしおりん。そこ言い直さなくてもよくない? どうせさっきの見てたでしょ、みんな」
今の空気をまるごとひっくり返すような、軽い調子の彩香の声が響いた。続いて、柊木くんが盛大にため息をついた。
「はぁ……おい、アホ彩! 余計な口挟んでんじゃねぇよ!」
「アホとはなによぉ、バカ遥っ! なんか深刻そうになっちゃってたから、ちょーっと和ませようとしただけじゃん!」
「それが余計だってんだよ!」
このやり取りで、静まり返っていた教室に小さな笑い声がおきる。私はなんだか、取り残されたような気分だった。
「ったく……悪かったな、黒羽さん。彩も悪気があるわけじゃねぇんだ、許してやってくれ」
「えっ、あ……うん。大丈夫、だけど……」
「そりゃよかった」
そう言うと、柊木くんはクラスのみんなの方に顔を向けた。
「ひとまず彩のアンポンタンのことはほっといて、だ──こういうことらしいけどさ。どうだよ、みんな。俺としては、今までのことは水に流してやってもいいと思うんだけどよ」
柊木くんの真剣な呼びかけに、誰もが近くの人の様子をうかがい、困ったような顔をする。気まずい沈黙だった。
しばらくして、誰かがぽつりと呟いた。
「……別にいいんじゃね。嫌ってたわけじゃないし?」
「そうだよね。これまではただ、接し方がわかんなかったというか……」
「まぁ、ここまで言われちゃったらなぁ」
一つ一つは小さな呟きだったけど、その空気はやがて、教室全体を包み込んでいった。
世の中こんな人たちばかりじゃないことは、私が一番よく知ってる。だからこそ、涙が止まらない。
目元を手で拭うと、また彩香が飛びついてきた。
「よかったね、しーおりんっ! ところでさぁ、あたしまだ、しおりんの連絡先知らないんだよねっ。ねっ、教えてよ!」
「彩っ! お前はまたっ……そういうのはあとでやれってのっ!」
「いいじゃんこれくらいっ! あたしたち、もう友達だもーんっ。そうだよね、しおりん?」
……まったく、彩香は。
さっきダメって言ったばっかりなのに。
「あ、彩香……わかったから、離れて。ちょっと苦しいよ」
「あっ、ごめんね。えへへ……つい」
でも……こういうのも、悪くないのかもね。
悪意に晒されたこともあるけど、私を取り巻く世界は、悪いことばかりじゃなかったみたい。
そっと顔を横に向けると、涼が照れくさそうに笑いながら私を見ていた。その眼差しはまるで、『頑張ったね』って言ってくれているようで──
胸のあたりが、じんと熱くなった。




