第65話 ありふれた、特別な朝
俺と栞の口にした挨拶は、教室のざわめきに溶けて消えていった。
数人から条件反射のような返事があり、また元の喧騒に戻ろうとして──
ほんのわずかに遅れて、ふっと途切れる。
いくつもの視線が、俺たちに向いた。
挨拶を終えてすぐに、手は解いている。それでも、その視線は俺と栞の間を行ったり来たりしていた。
静寂。
やがてそれは、水面に立った波紋のように、ざわめきに変わっていった。
「……あれって、高原か?」
「たぶん……? でも、すっげぇ雰囲気変わってんな」
「夏休みデビュー的なやつじゃね?」
「え、でも待って。高原くん、結構かっこよくない?」
耳に入ってくる、ヒソヒソ声。
これまで自分が話題の対象になることなんてなかった俺にとっては、正直落ち着かない。
けれど、それ以上に聞こえてくるのは、栞に対してのものだった。
「それより、その隣って……誰?」
「さぁ……うちのクラスにあんな子いたっけ?」
「……もしかして、転校生とか?」
「いや、それなら普通は二学期初日からじゃない?」
「というか……めちゃくちゃ可愛くね?」
「それな。タイプすぎてヤバいんだけど」
……やっぱり、こうなるよなぁ。
まぁ、無理もない。俺ですら、栞が髪を切ってきた直後は、誰かわからなかったくらいなのだから。
栞のことがタイプだと言っていたやつがちょっと引っ掛かるけど──
まぁ……栞はもう俺の彼女だし、誰にも渡すつもりはない。
ひとまず今は、平然を装って自分たちの席へ向かう。
俺と栞の席は近い。
窓際後方二番目の席に腰を下ろすと、すぐ右斜め前に栞の背中が見えた。
カバンを机の横にかけた栞が振り向き、目が合って小さく笑う。俺もほっと息を吐いて、肩の力を抜いた。
そんなことをしていると、二つの人影が近付いてきた。
「よう、お二人さん。まーた派手な登場だったな」
「おっはよー! しおりんっ、高原くんっ!」
にこやかに、軽い調子で声をかけてきたのは、遥と楓さんだった。
「……別に派手に登場したつもりはないけどね。おはよう、遥、楓さん」
「お、おはよ」
ショッピングモールで遭遇した時に一度話したおかげか、自分でも驚くくらいに自然に会話ができていた。けれど、栞はまだどこかぎこちない。
ほんのりと頬を赤らめて、小さくなっている姿はとても愛らしいけれど。
「やーんっ、やっぱしおりん可愛いーっ!」
「え、えっ……?! な、なにっ?!」
突然、栞は抵抗する間もなく、背後から楓さんに抱きつかれた。わかってはいたが、楓さんの距離の詰め方がすごい。俺でも躊躇するくらいのスキンシップというか──
「うわぁっ、しおりんのお肌すべすべっ! それに、なんかすっごくいい匂いするしっ!」
「や……やめっ!」
「いいじゃんいいじゃん、女の子同士なんだからっ! というか、腰ほっそっ! それに、こっちもなかなか……!」
いやこれ、大丈夫か?
ちょっと絵面がヤバい気がするけど……。
「やだぁっ……! 涼にもこんなのされたことないのにぃ……! んっ……本当にダメだってばぁ」
……俺にも、って。
その意味を考えようとして、やめた。
今はそんな場合じゃない。
栞が嫌がってる。どうにかして、楓さんを止めないと。
「あ、あの……楓さん。それくらいに……」
「ほれほれぇー! しおりんの弱いところはここかなぁ?」
「そこ、はっ……! くひっ、あははっ……! くすぐったいってばぁっ!」
ダメだこりゃ。全然聞いちゃいない。
助けを求めて遥を見ると、静かに首を振られた。
「諦めろ、涼。こうなった彩は、俺にも止められねぇよ。こいつ、昔っから可愛いもんに目がなくってなぁ」
頼みの遥は使い物にならない。
なら、俺が口を挟んだところできっと無駄だ。
かといって、あの間に割り込むのも危険な気がする。栞だけならまだしも、他の女子に触れるのには抵抗があるし。
……詰んだ。
頭を抱えそうになったその時──
栞が動いた。
どうにか片手の自由を取り戻し、それを楓さんの脳天に振り下ろした。
ぽこんっ、と良い音がした。
「んにゃっ?!」
拘束が緩んだ隙に立ち上がった栞は、ぴたりと張り付くように俺の背後に回った。そして、そこから低い声を上げて楓さんを威嚇する。
「うー……!」
「あれ……? えっと、しおりん……?」
「やだって言ったのにぃっ!」
「えっ、ちょ……ごめんって。まさかそんなに怒ると思わなくて……」
「まったくもうっ。今回は許してあげるけど、二度はないよ。私に抱きついていいのは、涼だけなんだから」
「……はーい、ごめんなさぁい」
しゅんとうなだれる楓さんを見て、ようやく栞も溜飲を下げたようだ。まるで上書きするみたいに俺の背中に身体を押し付けて、小さくため息をついた。
これで俺も一安心。
なんて思ったのも束の間──
いつの間にか、俺たちは他のクラスメイトにぐるりと取り囲まれていた。栞と楓さんがわちゃわちゃしていたせいで、気付くのが遅れたらしい。
その中の女子の一人がおずおずと進み出て、楓さんに声をかけた。
橘紗月。
確か、楓さんとは友達同士だったはずだ。
「あ、あの……彩ちゃん?」
「あっ、さっちんじゃん! おっはよー!」
「あ、うん、おはよう──じゃなくて、ちょっと聞きたいんだけど。その子って……?」
橘さんの視線が、栞に向く。
「んー? しおりんのこと?」
「……しおりん、って?」
「しおりんはしおりんだよ。黒羽栞、みんなも知ってるでしょ?」
楓さんは、事もなげにあっさりと言ってのけた。それから、栞を俺の背中から引き剥がして、橘さんの方へ顔を向けさせた。
じっと集まる視線の矢面に立たされた栞は、みるみる小さくなっていく。その背中を、楓さんが優しくぽんと押した。
「ほーら、しおりん。チャンスだよ、まだみんな疑ってるみたいだし」
「う、うん……」
栞はこくんと頷き、震える手でスカートの端をぎゅっと握った。ゆっくり呼吸を整えて、顔を上げる。
俺の手の平にも、じっとりと汗がにじんだ。
……頑張れ、栞。
「あの……私、黒羽です。髪切ったから、わからなかったかもしれないけど……」
栞が名乗ると、教室内が凍り付いた。
全員が息を止めてしまったみたいな、耳が痛くなるほどの静寂。誰も言葉を発せずに、目を丸くして口を半開きにしていた。
……あ、やば。
これ、知ってるやつだ。
ショッピングモールで、遥と楓さんに栞が正体を明かした時の反応と、まったく同じだった。俺は来たる衝撃に備えて、そっと手で耳を覆う。
その直後──
空気が爆ぜた。
『えええぇぇぇ〜〜っ?! 黒羽さんっ?!?!』
驚愕による叫びが幾重にも重なって、窓ガラスがビリビリと震えるほどの声量となった。耳を塞いでいた俺ですら、頭がくらくらするくらいだった。
にしても……みんな驚きすぎじゃない?
いやまぁ、仕方ないのかもしれないけど。
一学期が終わるまで、栞は長い前髪で顔を隠していた。これまでは、俺以外とは誰とも関わろうとしなかった。
それが今日は、クラスの中心ともいえる楓さんとじゃれ合っていた。
栞はちょっとだけ怒ってしまっていたけれど。こういうなんでもない日常が、俺の望んでいるものでもある。
だから、俺も腹を括らないと。
これから栞と一緒に、この教室で笑って過ごすために。




