第60話 かっこいい涼と、逃さない決意
◆side栞◆
お昼過ぎ、私は洗面台の鏡の前に立っていた。
髪に少しだけヘアオイルをつけて、丹念にブラシを通す。つやつやさらさらになるまで、しっかりと。
涼に撫でてもらって、気持ちいいって思ってもらいたいもん。
メイクはお母さんに教わりながら勉強中だから、まだしない。でも、お手入れは欠かしてないし、日焼け止めはちゃんと使う。
涼が思わず触りたくなっちゃうようにしとかないとね。
仕上げにリップを塗って、笑ってみる。
……うん。ちゃんと笑えてる。
まぁ、涼のことを考えるだけでこうなっちゃうんだけどね。
それに今日は──髪を切った涼を初めて実際に見せてもらうの。それだけで、勝手にほっぺが緩んじゃう。
……っと、いっけない。早く行かなきゃ。
だって、涼が待ってるんだもん。
二人で一緒に進めている夏休みの課題は、涼のおうちに置きっぱなしにさせてもらってるから、荷物は最小限で。
「お母さん、今日も行ってくるね」
「はいはい、いってらっしゃい。お夕飯までには帰ってくるのよ」
「わかってるよ」
お母さんと短く言葉を交わして、私は家を飛び出した。
気は早るけど、歩くのはなるべくゆっくり。急ぐとたくさん汗かいちゃうから。それでも、制汗スプレーは必需品なの。涼に汗臭いなんて思われなくないもんね。
到着したら、もう一回だけ鏡で髪が乱れてないかチェック。それからようやく、インターホンのボタンを押し込んだ。
応答がないのは、もういつものこと。その代わりに、玄関に近付いてくる足音が聞こえる。
バタバタしてて、ちょっとだけ急ぎ足。このわずかな時間が、たまらなく待ち遠しい。
カチャンと鍵を回す音がして、私の心臓はドキドキと鼓動を速める。そして、ゆっくりとドアが開いて、涼が顔を出した。
「栞、いらっしゃい」
優しい声に、優しい瞳。それに、切り立ての髪が合わさって──
私は、息を呑んだ。
……どうしよ。
覚悟は決めてきたはずなのに。
涼に会ったらにっこり笑って、胸に飛び込んで、それから「似合ってるよ」って言うつもりだったのに。
はうぅ……。
かっこいいよおぉぉ〜〜〜!!
え、待って。
写真よりも実物の方が何倍もよくない?!
こんなの、直視できないよぉっ!
「……どうしたの? 外暑かったでしょ、あがってよ」
そっと手を引かれて、少しだけバランスを崩した私は、ぽすんと涼の腕に抱きとめられた。
「あ……ごめん。大丈夫だった?」
「……大丈夫、じゃないもん。ずるいよ、涼。そんなにかっこよくなっちゃうなんて、ずるいっ!」
そんな涼にこんなことされて、心臓止まっちゃうかと思ったよ。
「え、いや……そう言われてもねぇ。継実さんのところに連れてったの、栞だし」
「それでもなのっ!」
「……ダメだった?」
「ううん、ダメじゃない。その髪……似合ってる。ちゃんとセットもしてくれてるし──」
継実さんがするのと同じとはいかないけど、涼なりに頑張ってくれたのは、一目でわかった。
「そりゃね。昨日、約束したから」
「涼のそういうところ、好き。嬉しい……ありがとね、涼」
「別にお礼を言われることじゃないというか……これも自分のためだから。ほら……栞には、よく見られたいっていうかさ」
涼は照れくさそうに、私から視線をそらす。その顔を見上げると、胸がとくんと鳴った。
もしかすると、これで学校に行ったらモテモテになっちゃったりするんじゃ……?
…………。
だ、ダメだよ?!
モテちゃうのはどうしようもないかもだけど、涼は私のなのっ!
ぎゅっと抱きつくと、大好きな涼の匂いがする。でも、ちょっとだけいつもと違う匂いが混じっていた。
……ワックスかな?
私は涼の胸にグリグリと頭を擦り付けた。髪が乱れるのは、この際気にしない。他の女の子たちが涼に近付かないように、私の匂いをつけておかなきゃだもん。
涼がよそ見しないのは、もうわかってるけど──
それでも、こんなんじゃまだ全然足りない。
なのに、涼は腕を解いて私に背を向けた。
「と、とりあえず家入ろうよ。ここ、まだ外だし……」
「……はぁい」
手を繋いだまま、玄関をくぐる。
その時、気付いた。
涼の後頭部の髪の毛が、ぴょこんって跳ねてる。
せっかくかっこよくキメてるのに、惜しいなぁ。
でも、それが涼らしいというか──
可愛くて、愛おしい。
私は手を伸ばして、跳ねている部分をそっと整えた。
「ん? 栞、今なにかした?」
「んーん、なんでもないよ。ちょっと触りたくなっちゃっただけ。そんなことより──今日は課題お休みにして、涼のお部屋で過ごしたいなぁ」
「え……最近サボりすぎてない?」
「大丈夫だよ。私に任せてくれれば、ちゃーんと終わるから」
それに、もう少し今の涼に慣れないと、勉強どころじゃないからね。
「……さすが学年トップ。まぁ、栞がそこまで言うならいいよ」
「やったっ! あ──でもその前に、水希さんにご挨拶してくるね」
こういうことは、毎回きちんとしておかないとね。水希さんはいつか私のお義母さんになるかもしれないわけだし、嫌われたくないもん。
……なんて、気が早いかな?
リビングに向かうと、水希さんはそこにいた。
「水希さん、こんにちは。お邪魔しますね」
「いらっしゃい。栞ちゃんはいつもしっかりしてるわねぇ。涼も見習ってほしいわ」
「母さんっ! 俺だって外ではちゃんとしてるってば」
「そうですよ。うちの両親も、涼のことは気に入ってくれてますから」
こんな会話もいつものことで、もう慣れつつある。水希さんは私たちを見比べて、くすりと笑った。
「あら、なら安心ね。いやぁ、よかったわぁ」
「なにがよかったんだよ?」
「えー? これで私も、ちゃんと孫の顔が見られそうだなーって思って」
「……なっ?! いきなりなに言ってんだよっ?! 付き合い始めたばっかなのに!」
叫ぶ涼の隣で、私は顔が熱くなるのを感じながら俯いた。
私よりも……水希さんの方が気が早いかも。
まだ、キスだってしてないのに。
でも、私はいつされてもいいんだけどなぁ。
涼からしてくれるように、もっと攻めないとダメなのかな……?
「なんにせよ、こんないい子滅多にいないんだから、逃がしちゃダメよ」
「当たり前だろっ! というか、栞の前で変なこと言うなよ! っとに……栞、母さんなんてほっといて、行こ」
涼は私の手を取って、強引にリビングから連れ出した。
思わず、ニヤける。
私……逃がしてもらえないんだぁ。
逃げたりなんか、するわけないけどね。
むしろ、私が涼を逃さないんだから。




