第61話 初めて同士の、ファーストキス
◆side栞◆
階段を上りながら、涼の手に視線を落とす。自然と指が絡み合って、そのまま涼のお部屋へ。
「……えへへ」
つい、笑いが漏れる。
涼は振り返って、首を傾げた。
「ん? どうかした?」
「んーん。ただね、改めて涼の手好きだなぁって思っただけ」
「……いつもと変わらないと思うけど?」
「私にとっては、いつだって特別なの。私を繋ぎ止めてくれたのは、この手だよ。苦しかったことも、辛かったことも、全部忘れさせてくれるんだもん」
私のより大きくて、ちょっとごつごつしてて、でも、優しい手。そっと持ち上げて頬を寄せると、涼の顔が少しだけ苦しそうに歪んだ。
「……栞」
涼の部屋に着いてドアが閉まった瞬間、私は優しく抱き寄せられた。涼の声は、わずかに震えていた。
「俺も……栞と同じだよ。栞が、特別だから」
「……涼?」
名前を呼ぶと、涼は私の目をじっと見つめて、頬を撫でてくれた。
「俺さ、ずっと自分が空っぽみたいな気がしてたんだよね」
「え……涼は空っぽなんかじゃ──」
私を救ってくれたのは、紛れもない涼の言葉で。そんな涼が、空っぽなわけないじゃない。
そう言いたかったけど、私は言葉を飲み込んだ。
この先に、私のまだ知らない涼のなにががあるような気がして。
「うん、今はそんなこと思ってないよ。でも、前はそうだったんだ。趣味とか好きなこととか、やりたいこともなにもなくて、ただ生きてるだけって感じでさ。そういうのが周りにバレるのが怖くて、人からも逃げてた。本当、情けないよね……」
涼は、自嘲気味に笑う。
私は黙って、話の続きを待った。
「でもね、栞と話すようになって、栞を好きになってさ──楽しいとか、嬉しいとか、そう思えることがたくさんあって。それは紛れもなく自分の中から溢れてくるものだって気付けて。そういうの全部、栞が教えてくれたんだよね」
そう言って、涼は私の髪をさらりと撫でた。
気付けば、私の目には涙がにじんでいた。
付き合う前に、水希さんから言われたことを思い出した。私が涼を変えたんだって。
それを今、涼の口から、涼の言葉で聞けたことが、すごく嬉しい。
私の涼への想いは、きっとすごく重い。
時々、引かれないかなって不安になるくらいに。
でも、涼も──
「だから、俺にとっても栞は特別っていうか。さっきの母さんの話じゃないけどさ、栞にずっと好きでいてもらえるように、俺、頑張るから──なんて……なんか俺、重たいかな……?」
「そんなことないよ。……言ったでしょ。私も、重いよって」
もうとっくに付き合ってるはずなのに、今、初めてちゃんと涼の彼女になれたような気がした。
「……ごめん。なんかいきなり変な話しして。栞には、あんまり弱いところを見せたくなくて」
「ううん、いいの。でもこれからは、そういうの、私には隠さなくていいからね。そんなことで、嫌いになったりしないから。全部、受け止めるから」
胸がいっぱいになって涼の胸元に顔を埋めると、両頬に手がそえられた。
「……ありがとう。ねぇ、栞?」
「うん……」
「顔、見せて。栞の顔、見たい」
「……ダメだよ。今、泣いちゃってるもん」
泣き顔なんてとっくに見られてるけど、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいの。だって、絶対可愛くないし……。
「俺だって似たようなもんだから、大丈夫だよ。ほら、顔上げてよ。……ね?」
「うぅ〜……うん」
渋々顔を上げると、そこには涼の潤んだ瞳があった。
涼は自分の涙は気にせずに、私の頬をそっと拭ってくれる。その優しい手つきが、心地いい。
涼がじっと私を見下ろして、私も真っ直ぐに涼を見上げる。
私の視界には、涼しか映らない。
涼の瞳には、私の顔だけが映っていた。
水希さんは、下の階にいる。
でも、今は世界に二人きりになったみたいで──
……今、絶対にいい雰囲気だよね?
告白した時と、同じだもん。
ううん。今の方が、ずっと涼を好きになってる。
私は、静かに目を閉じた。そして、少しだけ顎を上げる。
ねぇ、涼。
お願い、気付いて……。
待っている時間が、永遠にも思えた。
胸がきゅぅっと締め付けられて切なくて、このままなにもされないんじゃないかって不安で。
それでも、涼ならわかってくれるって期待して。
やがて──
ふにっと、一瞬だけ唇に柔らかいなにかが触れた。その瞬間、切なさも不安も解けて、幸せな気持ちだけに満たされる。
離れた後も、唇に残る熱が消えなくて。
呼吸の仕方すら、わからなくなる。
少し遅れて、ゆっくりと目を開けた。
そこには、やけに赤い顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す涼がいた。
「えっと……これで、あってたかな?」
「……うん。でもね──」
あんな一瞬で、一回きりで、私が満足すると思ったら大間違いなんだから。
もっともっと、涼がほしいって心が騒ぐ。
身体が、勝手に動いた。
涼が反応する隙は与えなかった。
思いっきり背伸びをして、涼の頭に腕を回して引き寄せる。今度は、私から──
さっきよりも長く。
離れたくないって思う心のままに、唇を重ねた。
どれくらいそうしていたのかは、自分でもわからない。数分だったかもしれないし、数秒だったのかもしれない。
しだいに息が苦しくなってきて、私は顔を離した。
「……ぷはぁっ」
えへへ……。
私のファーストキス、涼にあげちゃったぁ。
だから、涼のも、もう私のもの。
まだ唇が、じんじんと熱をもっている。感触を思い出すように指先で触れると、涼は驚いたように目を丸くしていた。
「……もしかして、栞も息止めてたの?」
「え、うん。そういうものじゃないの……?」
「そんなの俺に聞かれても……初めてだからわかんないよ。でも、途中からちょっと苦しくなってきてさ」
「あ、私も! キスって、思ってたよりも難しいんだね」
「う、うん……そうだね」
私たちは、無言で見つめ合った。
全く同じことを考えていたことがおかしくて、思わず吹き出した。
「……ぷっ。ふふっ、あははっ」
「あ、ひどっ! なんで笑うのさ?! 俺だって必死だったのに!」
「ごめんね。私たち不器用だなぁって思ったら、なんだかおかしくって。んふふっ」
「それは……俺もごめんだけどさぁ」
あーあ。
せっかくいい雰囲気だったのに、締まらないなぁ。
でも、こういうのも私たちらしいというか。
涼が下手に手慣れてても不安になっちゃうし。
だから、これでいいの。
だって、初めて同士。
二人で慣れていけばいいだけなんだもん。
「ねぇ、涼」
「……なに?」
「上手なキスができるように、これからいーっぱい練習しようね?」
「それ、練習って言っていいのかな……」
「いいのーっ!」
そう言って、私はぎゅっと涼に抱きついた。
キスをして、さらに涼が好きになったみたい。でも、もっと好きになりたい。
大丈夫。
きっと涼も、同じこと思ってくれてるはずだから。
ちらりと顔を盗み見る。
涼はまだ、真っ赤になったままだった。
ふふっ、照れちゃって可愛いなぁ。
まぁ、私もちょっと恥ずかしいけどね。
……あ、どうしよ。
またキスしたくなってきちゃった。




