第6話 不器用な謝罪と、あの日の続き
黒羽さんを泣かせてしまった。
その事実が、胸の奥に重くのしかかっていた。どうしてあんな言い方をしてしまったのか。
他の誰かなら、きっともっとうまくできたのだろう。黒羽さんの痛みに寄り添って、優しい言葉を選んで、彼女を傷付けずに済んだはずだ。
でも、俺には無理だった。
考え、たどり着いた答えは、ひどく単純だった。
諦めるしかない、と。
もう、忘れよう。あの二回の出来事は、俺の願望が生み出した夢か妄想だと思うことにしよう。
辛くないわけじゃない。でも、俺のせいで人が苦しい思いをする方がもっと痛い。だったら、孤独でいる方がまだマシだ。
そう思っているはずなのに、放課後になると足は自然と図書室に向かっていた。
習慣だから、なんて言葉では、もう誤魔化しきれない。たぶん俺は、ほんの小さな可能性に縋っている。
もし、また黒羽さんが来てくれたなら──
けれど、翌日も、その翌日も、週末が来るまで、黒羽さんが図書室を訪れることはなかった。
週明けの月曜日。俺は重い足取りで教室に入ると、黒羽さんの席は空いていた。普段なら、だいたいは俺よりも先に来て、本を読んでいることが多いのに。
もしかして、学校に来るのさえ嫌になってしまったのだろうか。
だとしたら──
チクチクと、胸が痛む。
せめて謝ることができていたなら。そう思わずにはいられなかった。
結局、黒羽さんは始業ギリギリになって教室に駆け込んできた。珍しく息を切らせて、乱れた髪を慌てて整えながら。
その姿が視界に入ってきた瞬間、安堵が胸に広がる。同時に、そんな自分が情けなくなった。
放課後、やはり俺は図書室にいた。
ここは辛い記憶を呼び起こすのに、気が付けば、唯一落ち着ける場所にもなっていた。
どうせ今日は黒羽さんの当番の日じゃない。なら、いつも通りに──と、教科書を開いた、その時だった。
「あ、あの……高原、くん……?」
聞き覚えのある、か細く震える声。
恐る恐る振り返ると、そこには黒羽さんが立っていた。肩をすぼめ、胸の前で手を組み、指先をもじもじと落ち着きなく動かしている。
なんだか、ひどく儚く見えた。
「……黒羽さん」
「うん……」
黒羽さんは、言葉を探すように顔を左右に揺らす。けれど、俺はそれを待てなかった。
黒羽さんはもしかすると、俺に責めに来たのかもしれない。それでも構わなかった。
泣かせてしまった俺に、また声をかけてくれた。それだけで十分だった。
なら、どんなにみっともなくてもいい。
そこに一縷の望みがあるのなら。
「ごめんっ!」
反射的に、深く頭を下げていた。床と背中が平行になるくらいまで。
喧嘩して、仲直りをした経験なんて俺にはない。だから、やり方なんてわからない。こうするしか、思い付かなかった。
「よく知りもしないのに、無神経なこと言ってごめん。ついカッとなって、怒鳴ったりしてごめん。本当は俺、怖かったんだ。黒羽さんに突き放されて、これっきりになるんじゃないかって。なのに、それを八つ当たりみたいにぶつけて──」
許してほしい、とは言えなかった。
それは、あまりにも身勝手が過ぎる。それを口にしてしまえば、この謝罪が自分のためのものになってしまう。
呆然と口を開けていた黒羽さんは、しばらくしてポツリと呟いた。
「……待ってよ。なんで?」
「え?」
「なんで、高原くんが謝るの?」
「それはだって……黒羽さんを泣かせちゃったし?」
「な、泣いてないもんっ!」
「いや、泣いてたでしょ?!」
「泣いてないっ! いえ、泣いたかもしれないけど、そんなことどうでもよくって。だから、その……ごめんなさいっ!」
今度は、黒羽さんが頭を下げた。鉄壁だった前髪が、ふわりと浮き上がるほどの勢いで。
「ちょっ、待って待って! なんで黒羽さんが謝るのさ! どう考えても悪いのは俺で──」
「違うのっ!」
必死な声に、言葉を失う。
「違うの。全部……見透かされたような気がして、動揺しちゃっただけ。でもね……嬉しかったの」
黒羽さんの肩が、小さく震えていた。言葉は不器用だったけれど、俺にはわかってしまった。
あの時間を心地よいと思っていたのは、俺だけじゃなかったんだって。失うのが怖くて、彼女もここに来たんだって。
それに比べて俺は──逃げようとしていた。忘れてしまおうとしていた。
情けなくて、後悔ばかりだ。でも、今ならまだ、できることがある。
「ねぇ、黒羽さん」
「……なに?」
「俺のこと、怒ってないってことでいいのかな?」
「……うん、怒ってない。全く、これっぽっちも」
「そっか。俺もさ、黒羽さんのこと全然怒ってないよ。だから……あの日の続き、お願いできないかな?」
「続きって……?」
「勉強、教えてよ。黒羽さんに教えてもらうの、わかりやすかったから」
黒羽さんが、はっと息を呑む。そして、それを誤魔化すように咳払いを一つして、一歩近付いてくる。
「し、仕方ないわねっ! そこまで言うなら教えてあげる。けど、私が教えるからには、泣き言は許さないから!」
「あ、あはは……。そこはお手柔らかにお願いしたいかなぁ、なんて……」
「だーめっ! しっかり結果も出してもらうわ! 期末試験も近いし、ちょうどいいでしょ。みっちり叩き込んであげるから、覚悟しなさい!」
「う、うん……わかったよ」
剣幕に圧されながらも、勝手に口元が緩む。
「なによっ。ニヤニヤして、気持ち悪い。もしかして、厳しい方が嬉しい人なの?」
「そ、そんなことないって!」
「ふぅん? なんでもいいけど、しっかりついてきてよね。ほら、始めるわよ」
黒羽さんは少しだけ唇を尖らせて、俺の左隣の席に乱暴に腰を下ろした。
その横顔を盗み見ながら、俺は静かに決める。
ちゃんと、ついていくよ。
いや、それだけじゃ足りないかな。
俺も、強くならなきゃ。
せめて、隣に並べるくらいには。
やがて、下校のチャイムが鳴る。黒羽さんはペンを置き、教科書を閉じた。
「これは確認なんだけど……明日も、来るわよね?」
「え?」
「来て、くれるでしょ?」
逃げ道を塞ぐみたいな言い方に、思わず頷いた。
「うん、来るけど……」
そう答えた瞬間、黒羽さんの口元が微笑むみたいに弧を描く。その表情になぜか、少しだけ背筋がゾクリとした。




