第58話 お姫様抱っこと、無防備な寝顔
しばらく待っていると、店のドアが開き、文乃さんが駆け込んできた。
結局、完全に熟睡してしまったらしく、栞は今も俺の肩を枕にして眠ったまま。そんな栞を見て、文乃さんは困ったようにため息をついた。
「まったく、この子は……こんなところで寝ちゃって。だから送り迎えしようかって言ったのに。」
「いえ、全然大丈夫ですよ。むしろ、俺が無理させたみたいなものですから。夜遅くまで、俺に似合う髪型を探してくれていたらしいので」
「あぁ、そういうこと……。本当、栞は涼くんが大好きなのね。でも──残念ねぇ」
「残念って……なにがです?」
「ふふっ。だって涼くん、髪がスッキリして、とっても素敵になったじゃない? それを真っ先に見られないなんて、残念でしょ」
文乃さんは、いたずらっぽい顔で笑う。その表情が栞とそっくりで、思わずドキリとした。
「こらこら、文乃。そういうことはねぇ、最初は愛しの彼女から言ってもらいたいのが男心ってもんだよ。ねぇ、高原くん?」
いつの間にか、継実さんもこっちに戻ってきていた。
「え、いや、その……」
「あら。私ったら、うっかりしてたわ。ごめんね、涼くん。それと──継実も、うちの子が迷惑かけちゃって悪かったわね」
「いんや、これくらい構わないよ。栞ちゃん、昔からあんまり隙のない子だったけど……こんな幸せそうな顔で寝ちゃって。よっぽど高原くんのこと、信頼してるんだろうねぇ」
「そうなのよ。家でも、口を開くと涼くんのことばっかりでね。今日だって、涼くんがうちに来た時も、べったりくっついて離れなかったんだから」
「へぇ、そんなになんだ。まぁ、私も早々に見せつけられちゃったけどさ」
二つの視線が突き刺さる。
俺はもう、どう返していいのかわからず、笑うしかなかった。
「さて、あんまり長居して仕事の邪魔しちゃ悪いし──そろそろ帰りましょうか。涼くん、栞を車まで運んでもらってもいいかしら?」
「え、俺が……ですか?」
「当たり前でしょ。なんたって、栞ちゃんの彼氏は君なんだから」
「そういうこと。その方が、栞も喜ぶと思うしね。というわけで、頑張って!」
「──と言われましても。どうやって運んだら……?」
横を見ると、栞は相変わらず穏やかな寝息を立てていた。眠ったままの栞を運ぶとすれば、一つしか方法がないわけで──
「そりゃもう、あれしかないよね」
「そうよね。まさか栞がお姫様抱っこされてるところを見られるなんて、思ってもみなかったわぁ」
……やっぱり。
俺は緊張で身体が固くなるのを感じながら、小さく息を飲み込んだ。
いいのかなぁ。
付き合ってるとはいえ、寝ている女の子の身体を無遠慮に触るなんて。
「ほらほら、早くしないと次の予約のお客さんが来ちゃうよ。男性だけど、可愛い彼女の寝顔を見られちゃってもいいのかい?」
「それはっ……嫌、ですけど」
「なら、ちゃちゃっと運んであげなよ」
完全におもちゃにされてるのはわかっているけど──
……やるしかないか。
それに、文乃さんがいいって言ってるんだから。
「……わかりましたよ。やります!」
ごめんね、栞。
少しだけ、触るよ。
心の中で謝って、俺は栞の背に腕を回して抱き上げる。
栞の身体は温かく柔らかくて、そしてなにより、思っていたよりもずっと軽かった。さすがに羽みたいとはいかないけれど。
その重みが、たまらなく愛おしくて。
けれど、こんな小さな身体で、あんなにも大きな悩みを抱えていたのかと思うと──
少しだけ、胸が痛い。
でも、今は俺がいる。
これからずっと、大事にしないと。
いや、違う。
俺が──大事にしてあげたい。誰よりも、なによりも大切な女の子だから。
そんなことを考えていると、ポンと肩が叩かれた。振り向くと、継実さんが笑いながら、栞を抱いた俺にスマホを向けていた。
カシャリ、とシャッター音が鳴る。
「……な、なに撮ってるんですか?!」
「いやいや、これは撮らない手はないでしょ。せっかくだから、栞ちゃんに送ってあげよーっと」
「ちょっ?! やめてくださいよ!」
「いいじゃん、減るもんじゃなし。それに、栞ちゃん絶対喜ぶって」
「そういう問題じゃ……」
と言っても、俺の両手は栞を抱えるので精一杯。そうでなくても、止められる気はしない。
「はぁ……もういいです」
俺は諦めて、文乃さんが開けてくれているドアに向かう。そして、店を出て振り返り、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございました。また、来ますね」
「はいはい、今後ともご贔屓に」
「じゃあ涼くん、行きましょうか。継実も、またね」
「うん、また。栞ちゃんにもよろしく言っといて」
文乃さんと継実さんが手を振り合い、美容室を後にする。駐車場には何度か見たことのある、黒羽家の車が停まっていた。
後部座席に栞をそっと座らせてシートベルトを締めると、ようやく人心地ついた気分だった。別に抱っこするのが嫌というわけではないが、やっぱり罪悪感があるし、理性へのダメージも大きい。
「涼くんは、栞の隣に乗ってあげてね」
「え、俺も乗せてもらっていいんですか?」
「もちろんよ。涼くん一人、置いてけぼりになんてできないもの。それにね、降ろすのも手伝ってもらわないとだから」
「あ……そうですか」
どうやら、試練はもう一度あるらしい。
覚悟を決めて車に乗り込むと、また自然に栞がもたれかかってくる。
実は起きてるんじゃないかと思ったりもしたが、その瞳はやはり閉じられたまま。栞の家に着くまで、開かれることはなかった。
そうして、またドキドキさせられながら栞を部屋のベッドに運んだら、ついにミッションは完了。タオルケットをかけてあげて、無防備な寝顔を見下ろす。
さらりと髪を撫でると、栞はくすぐったそうに身体をよじり、長い睫毛がかすかに震えた。
「んふ……りょう、しゅきぃ……」
本当に栞は……。
俺の気も知らないで。
どれだけ必死で自分を抑え込んでいるのかって。
本当は、このまま栞を俺だけのものにしてしまいたい。可愛い寝言を呟く唇を奪って、それから……。
なんて──できるわけないよなぁ。
起きている時ならいざ知らず。
これ以上寝顔を見ていたら、俺が耐えられなくなる。
ため息混じりに栞の部屋を出て、文乃さんからペンを借り、メモ用紙をもらった。そこに、栞への書き置きを記す。
『よく寝てるから、起こさずに帰るよ。
ゆっくり休んで。
また夜に、通話でね。 涼』
それを栞の枕元に置いて、名残惜しさを感じつつも、俺はそそくさと退散した。




