第57話 磨かれた姿と、眠る栞
継実さんの繰るハサミが、サクサクと軽快に俺の髪を切り落としていく。ふと、その手が途中で止まった。
「そういえば、高原くんってさぁ──栞ちゃんの髪のこと、知ってるんだよね?」
「栞の髪って……あの長かった前髪のこと、ですよね。伸ばしてた理由なら、聞きましたけど……?」
「そっか。やっぱり、きっかけは君だったんだね」
「えっと……継実さん?」
継実さんはわずかに視線を落として、手に握るハサミをじっと見つめていた。
「私は事情までは教えてもらえなかったんだけど、ある日突然、前髪は切らなくていいって言われて……。昔から知ってる仲といってもお客さんには違いないから、私は言われる通りにするしかなくってねぇ。文乃に聞いてみてもよくわからないって言うし。それがついこないだ、切りたいって言ってくれてさぁ──あの時は、本当に嬉しかったなぁ」
そう言って、継実さんは一度ハサミを置いた。その手が、俺の肩に触れる。
「私はこの通り美容師だから、お客さんをきれいにして、喜んでもらうのが仕事なわけよ。なのにさ、小さい頃から可愛がってきた栞ちゃんにそうしてあげられないのが、ずっと悔しくて……。だから、ありがとね、高原くん」
「……はい」
素直に頷いた。
聡さんにも遥にも、認めてもらえた。あまり実感はないけれど、俺も変わり始めているはず。それを、証明したかった。
同時に、栞がいろんな人に愛されていることも知れた。家族からだけじゃなくて、周囲からすごく大事にされてきたんだって。
そんな人たちに、もう心配なんてさせないように──
俺ももっと、しっかりしないと。
「というわけでさ、これから栞ちゃんをたくさん幸せにしてやってよ。もし泣かせるようなことがあったら──わかってるよね?」
「しませんよ、そんなこと。俺にとっても──栞は大切な彼女ですから」
「おーおー、言うじゃん。これは頼りないって言っちゃったのを撤回しないといけないかなぁ。悪かったね、見誤ってたよ」
「いいですよ、そんなの気にしてないです。別に、間違ってませんし」
「そう? なら──栞ちゃんを悲しませたら、私が代わりにお仕置きするってことで」
「えっ?! なんでそうなるんですか! というか、お仕置きっていったいなにを……?」
「そうだねぇ。一生髪が生えなくしちゃう、ってのはどう?」
継実さんはいい笑顔で、再びハサミを手に取った。それを、俺の頭の後ろでチラつかせる。
冗談なのはわかっているのに、めちゃくちゃ怖い。
いや、目だけ笑ってないような。
……まさか、本気じゃないよな。
「大丈夫ですって! そんなことには絶対なりませんから!」
「うん。私としても、その方が嬉しいからね。んじゃ、そろそろ再開しようか。あんまり栞ちゃんを待たせても悪いしさ」
「……そうしてください」
俺は深くため息をついた。
悪い人じゃないんだろうけど、心臓に悪い。栞とは、また違う意味で。
その後は、よどみなく施術が進んでいった。カットを済ませ、シャンプーをしてもらい、乾かしたら最後に微調整で終わり──
と思ったところで、継実さんはなにかの容器を開け、その中身を手に取った。
「さて、一応これで完成だけど──仕上げにセットもしちゃおうか」
「えっと、それは……?」
「ん? ワックスだけど……もしかして、使ったことない?」
「ないですね。初めてです」
「だったらちょうどいいや。簡単に使い方を教えてあげるから、よく見ておきなよ」
なるほど、あれはワックスか。これまでそういうものに無頓着すぎて、全然わからなかった。
でもこれからは、俺にも彼女がいるわけだし、気にしていかないといけないのだろう。ただでさえ、栞は周囲の目を引くほど可愛い。
なら俺も、その隣に立つのに相応しくならないといけない……はず。
「……はい。お願いします」
「んじゃ、まずはこうして全体に馴染ませて──」
鏡に映る自分が変わっていく。
継実さんの手で、栞の影響で。
それを見逃さないように、俺はしっかりと目に焼き付ける。
すっきりと切り揃えてもらっただけでも十分すぎるくらいだったのに、服に続いて、また新しい世界が拓けた気がした。
「ほい、できあがりっと。仕上がりはいかがですか、お客様?」
「……すごいです。なんか、自分じゃないみたいっていうか」
「それは間違いだね。ちゃんと磨いてあげればさ、誰だって輝けるんだよ。高原くんだって、元の手入れが雑すぎたってだけなんだから、これから気を付けな」
「そうします。……ありがとう、ございました」
「いいってことよ。ほいじゃ、栞ちゃんを呼んでくるから」
そう言って、さっとクロスを取り払い、栞の待つ入り口の方へと向かっていった。
……栞、なんて言うかな。
昨日みたいに、また褒めてくれるかな。
そんなところを継実さんが見られたら、からかわれるかもしれないけど──
それでも、期待せずにはいられなかった。
そして、継実さんはすぐに戻ってきた。
なぜか、一人で。
「あれ……? 栞は?」
「それがねぇ……栞ちゃん寝ちゃっててさぁ。声かけても、揺すっても起きないんだよねぇ」
「そういえば、昨夜は夜更かししたって言ってたんで、そのせいですかね……?」
「なんでもいいけど、高原くんも起こしてみてよ」
言われるままに継実さんについていくと、栞はソファに座ったまま、すぅすぅと寝息を立てていた。
栞の寝顔を見るのは二度目だが、やっぱりどこかあどけなくて愛らしい。あまりに気持ちよさそうに眠っていて、少しだけ起こすのが忍びない。
それでも見て欲しい気持ちの方が強くて、栞の肩を軽く叩き、そっと声をかけてみた。
「栞、終わったよ。起きて」
「んぅ……」
まったく起きる気配がない。
というか──
これは無理だ。
起こせない。
栞が夜更かししたのって、俺のためだったわけだし。
「……だ、ダメそうですね」
「いや、諦めるの早すぎでしょ……。帰りはどうするのさ?」
「あ、そうでした……」
「まったく。まぁ、気持ちは分かるけどね。しょうがない、文乃に連絡して迎えに来てもらうよ」
継実さんはカウンターの奥に入り、電話をかけ始めた。漏れ聞こえてくる声は、親友同士というだけあってすごく親しげだった。
「文乃、来てくれるってさ。すぐ来るだろうから、そこで栞ちゃんと待ってるといいよ」
「そうさせてもらいます──の前に……会計がまだですよね」
「おっといけない、こりゃうっかりしてたね」
そんな会話をしつつお代を払うと、継実さんはレシートと一緒になにやら手渡してきた。
「おまけでワックスあげるから、使ってみな。一応、髪質にあってそうなやつだから」
「え、いいんですか?」
「栞ちゃんからの紹介ってことで、サービス。というより、その方が栞ちゃんが喜ぶかなって思ったからだけど」
「……ありがとうございます。教えてもらったように、やってみます」
「ん、頑張れ少年。使い切ってもし気に入ったら、今度は買っておくれ」
「あはは、そうさせてもらいます」
ちゃっかりしてるなぁ。
怖いこと言われたけど、確かに栞が言ってたように付き合いやすい人かもしれない。
「んじゃ、私は片付けと次の準備してるから、文乃が来るまでのんびりしてな」
「はい」
店の奥へと引っ込んでいった継実さんを見送って、俺は栞の隣に腰を下ろす。すると栞は、起きている時と同じように、まるで当たり前みたいに俺に寄りかかってきた。
「んー……りょう」
やれやれ、どんな夢を見ているのやら。
俺は苦笑して、栞の柔らかな髪をさらりと撫でた。すぐに見せられなかったのは、少し残念だけど──
今はゆっくりおやすみ、栞。




