第56話 初めての美容室と、本気の仕事
コンコンッ、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「栞、涼くん──入ってもいいかしら?」
文乃さんの呼ぶ声で、俺の意識は一気に現実に引き戻された。
まぁ、状況はまったく現実的じゃないんだけど。
むしろ、夢見心地というか……。
なにせ、俺はまだ栞の胸元に顔を埋めたまま、がっちりとホールドされて頭をもふられ続けている。
さすがに、これを文乃さんに見られるのは恥ずかしい。
「し、栞……呼ばれてるよ」
「んー? 聞こえないふり、しちゃおっか?」
「いや、だめでしょ! というか、そろそろ離して」
「やーだぁ。もうちょっとこうしてるのぉ!」
いつもより、とろんとした声。
それに、ちょっとだけわがままな口調。
栞はぐりぐりと、俺の頭に頬を押し付けてきた。
そういえば、夜更かししたって言ってたっけ。
栞って……眠いとこんな感じになるのか。
寝惚けた栞と通話した時も、そうだったし。
なんてことを考えているうちに、またドアがノックされた。
「二人とも、聞こえてるのー?」
「はーいっ! 入っていいよ」
「ちょっ?! 栞っ?!」
止める間もなく、がちゃりとドアが開いた。
……終わった。
そう思った瞬間に、文乃さんが部屋へと入ってくる。
「お昼ごはんなんだけど──って……あら」
文乃さんの視線が、ゆっくりとこちらに向く。
ぱちりと目が合う。文乃さんの目が、かすかに細くなった。
俺はまだ、栞の腕の中に捕獲されたまま。どう見ても、誤魔化しようのない体勢だった。
「あらぁ……あらあらあら。もしかして私、お邪魔しちゃったかしら?」
「いや、あの……文乃さん?! これはその……」
必死で絞り出そうとしても、うまく言葉が出てこない。なのに、栞はより一層強く俺の頭を抱きしめた。
「もー、お母さん。タイミングが悪いよぉ。せっかく涼がすっごく可愛かったのにぃ」
「それは悪いことしちゃったわね。でも……うふふっ。栞ったら、本当に涼くんが好きなのね」
「当たり前でしょーっ! そんなわかりきったこと言わなくていいのっ!」
「はいはい。栞が幸せそうで私も嬉しいわ。ごはんはもうちょっと待ってあげるから、満足したら下りてきなさいね」
それだけ言うと、文乃さんはさっさと部屋を出ていった。その後ろ姿を見送って、俺は首を傾げる。
……あれ?
俺がおかしいのかな……。
見られたら、どうなるんだっけ……?
というか、さっきも抱きつかれたの見られてるし──
案外、付き合ってるならこれくらい普通なのかもしれない。
じゃあ……これでいいのか。
とはいえ、それから栞が満足するまでには、かなりの時間を要した。
その後の昼食は、なんというか……終始落ち着かなかった。
俺たちを見る文乃さんの視線はどこか含みがあるし、栞は栞でやけに上機嫌で、やたらと距離が近いし。
結局、せっかく用意してもらったのに味がわからないまま、食事の時間はあっという間に過ぎていった。
そして──
「それじゃ、そろそろ行こっか」
栞の一言で、俺たちは家を出ることになった。
午後の強い日差しがじりじりと肌を焼く。正直、かなり暑い。文乃さんが車で送迎しようかと言ってくれたのだが、栞が二人でのんびり行くからと断ってしまったので徒歩だった。
栞は、相変わらず俺の左腕にべったりとくっついている。昨日のデートで多少は慣れたが、まだ少し気恥ずかしい。
「あの……栞?」
「なぁに?」
「えっとさ……ずっとくっついてるの、暑くない?」
「えー? 全然だよ。どこでも、涼の隣が一番快適だもんっ」
栞はそっと俺を見上げて微笑む。その笑みが太陽よりも眩しく見えて、俺は視線を前方遠くに逃がした。
「……ところで、栞──今から行く美容室って、文乃さんの友達がやってるところ、なんだよね?」
「うん。継実さんっていうんだけどね、お母さんの高校時代からの親友なんだって。それがどうかしたの?」
「いや……なんとなく、どんな人なのかなって気になっただけだよ」
「もしかして涼──緊張してる?」
「そりゃするでしょ。初対面なんだしさ」
以前に比べたらだいぶマシになっているとはいえ、俺はまだまだ人見知り。それが栞と関わりの深い人というなら、なおさらだ。
そもそも、俺は美容室というもの自体が初めて。緊張するなというのが無理な話だった。
「大丈夫。腕は確かだし、いい人だからね。それにね──ちーゃんと私の彼氏ですって紹介するから、悪いようにはされないよ」
「……それ、本当に大丈夫なのかなぁ」
不安になる俺とは対照的に、栞の足取りは軽い。ぴょこぴょこと弾んで、長い髪がふわふわと揺れていた。
そうして、三十分ほど歩いた頃。
「ほら、ここだよ」
小洒落た外観の建物の前で、栞が足を止めた。看板に書かれた店名は『HAIR SALON Tsugumi』。さっき聞いた美容師の名前と同じだった。
栞がドアを開くと、ベルがカランと音を立てる。店内に足を踏み入れた瞬間、俺は息を止めた。
……いつも行ってる床屋と、全然違う。
というか、おしゃれすぎる。
なんだか場違いな気がしてきょろきょろしていると、店の奥から一人の女性が近付いてくる。彼女は栞の姿を見ると、にこやかに片手を上げた。
この人が継実さんで間違いないだろう。細身の長身で、ショートカットが似合う格好いい雰囲気の女性だった。
「いらっしゃい、栞ちゃん。待ってたよ」
「継実さん! 言ってた通り、私の彼氏、連れてきましたよ。今日はお願いしますね」
「はいよ、まっかせといて! ──しっかし、連れておいでって言ったのは私だけどさぁ、まさかこんなにすぐだとは思わなかったよねぇ。連絡もらった時は驚いたよ」
「えへへ。なんかうまくいきすぎちゃったというか、そんな感じです。もちろん、継実さんに髪を切ってもらったおかげでもありますけどね」
「おっと、嬉しいこと言ってくれるじゃない。なんにせよ、栞ちゃんにも春が来たってことだね。おめでとう」
「ありがとうございます!」
「それで──そこの少年、名前は?」
継実さんの目が、俺に向いた。その視線は鋭くて、なんとなく値踏みされているようにも感じる。
会話に入っていけなかった俺も、そのタイミングでようやくしっかりと栞の隣に並んだ。
「えっと……高原涼です。よろしくお願いします」
軽く頭を下げると、継実さんは俺の頭のてっぺんから足先までをじっくりと観察して、それから小さく頷いた。
「ふぅん……なるほどねぇ。結構ちゃんとしてる子じゃん。でも……ちょーっと頼りないかなぁ」
「……あはは」
素直すぎる感想に、苦笑するしかなかった。
間違っていないから、言い返すこともできない。
ただ、栞だけは頬をぷっくり膨らませて、継実さんに詰め寄った。
「そんなことないですもんっ! 涼はいつも私を助けてくれて、すっごく頼りになるんですっ! いくら継実さんでも、涼をバカにすると許しませんよっ!」
その剣幕に、継実さんも少しだけ引いていた。
「ご、ごめんごめん。別にバカにするつもりはなかったんだけどね。でも……これは栞ちゃん、かなりお熱だねぇ。やるじゃん、君」
茶化すように、肘で脇腹をつつかれた。けれど、継実さんはすぐに真面目な顔になって、パチンと手を叩いた。
「さーて! おしゃべりはこのへんにして、そろそろ本題に入ろうか。栞ちゃんからこんな感じにって写真はもらってるけど……高原くんからはなにか要望はあるかい?」
「いえ、特にはないですね。髪型とか、俺もよくわからないので……栞がお願いした通りで大丈夫です」
「おっけー、了解。じゃあ、お席にご案内しまーす──の前に、その間栞ちゃんはどうする? なんなら、隣で見ててもらっても構わないけど」
栞が隣にいてくれたら俺も安心、なんて思ったが──
栞は静かに首を横に振り、きゅっと唇を結んで入り口付近に置かれていたソファに腰を下ろした。
「私は……ここで待ってます」
「あれ、それでいいの?」
「はい。見てると邪魔しちゃいそうだし……継実さんにちゃんと集中してもらいたいですから」
「そっかそっか、わかったよ。つまり、全力でやれってことだね。元々手を抜くつもりはなかったけど──栞ちゃんにそこまで言われたら、私も気合を入れるしかないねぇ」
そう言って、継実さんは軽く俺の背を叩いた。
「高原くん、こっち。ついておいで」
「あ、はい」
栞に見送られ、案内されるまま椅子に座ると、ふわりとクロスがかけられた。
「さて──始めようか」
少しだけ低くなった声。
鏡越しに目が合った継実さんの瞳は、さっきまでと別人みたいに真剣で──
俺は思わず、背筋を伸ばした。




