第55話 甘やかされる、心地よさ
ひとしきり抱き合って満足したのか、栞は俺の腕からするりと抜け出した。
ここからはたぶん、いつも通り。俺の部屋から栞の部屋に場所を移しても、やることはなにも変わらないはず。寄り添って、他愛のない話をして。そんな時間になるだろう──
……なんて思っていたのに。
どうやらそうでもないらしい。
栞はぽすんとベッドに腰を下ろすと、じっと俺を見上げて──手招きをした。
「ねぇ涼。こっち、来て。私の前に、座ってくれる?」
「いいけど……こんな感じ?」
栞に背を向けるカタチで、床に座り込んでみる。
「うん、そうそう。それじゃ──ちょっと失礼して」
そんな言葉とともに、栞の手が俺の頭に触れた。そのまま、毛流れに沿って穏やかな手つきで撫でられる。何度も何度も、絶え間なく。
くすぐったいような落ち着かない感覚に、思わず肩が揺れた。
「えへへ。こうやって涼の髪に触れるの、二回目だね?」
「いや、うん。そうだけど……なにしてるの、これ?」
「なにって──なでなで、かな? 切っちゃう前に堪能させてって、言っておいたでしょ?」
確かに言っていた。
それは俺も覚えているけど。
「……てっきり俺は見るだけなのかと思ってたよ。見納め的な感じでさ」
「それで足りるわけないもんっ。涼のことはなんでも、五感全部で覚えておきたいから」
栞がそう言った瞬間──
首に、腕が巻きついてきた。頭には、わずかな重みがかかる。
あまりにも自然な動きで、抱きしめられていると気付くのが一瞬遅れた。
後頭部と頭頂部に感じるのは、それぞれ違った柔らかさ。頭上から、すんすんと鼻を鳴らす音も聞こえてくる。
……五感全部って、まさか。
「あの、栞……? さすがに髪を食べたりは、しないよね?」
「食べてもいいの?」
「え、本気……?」
「ふふっ……涼の髪なら、食べちゃってもいいかなぁって。いい匂いだし、美味しそうかも。そしたら、涼が私の一部になるよね」
「……まじで言ってる?」
くすくすと栞が笑う。その吐息が耳を撫で、笑っている震えが、直に伝わってくる。
「……なーんて、冗談だよ。いくらなんでも、髪を食べたりはしないってば」
いや……。
どこからどこまでが本気なのか、さっぱりわからないんだけど。
「んふふっ。涼っ、よしよ〜し。いつもたくさん甘えさせてくれるから、今日はお返ししてあげるねぇ。いい子いい子」
子供をあやすような、優しい声。
また、ふわふわと頭を撫でられる。
向かい合っていなくて良かったと、心底思う。
きっと俺、人に見せられないようなだらしない顔になってるだろうから。
それくらい、栞に撫でられるのは抗えないほどに気持ちが良かった。
けれど、ふと栞の手が止まる。
「ところで涼。ちょっと気になってたことがあるんだけど、言ってもいい?」
「ん……なに?」
「涼って普段、お風呂上がりに髪乾かしてないでしょ?」
栞の声は、どこかお説教をしているみたいになっていた。
「……風呂上がりは暑いし、面倒くさくなっちゃうから。でも、なんでわかるの?」
「だって、前に髪乾かしてあげた時もそうだったもん。それにね──」
栞が手櫛で、俺の髪を梳く。
時々、小さな抵抗があった。
「ほら、毛先が少し痛んでる。ちゃんと乾かしてない証拠っ」
「いや、でも……多少傷んだって、大して困ることないっていうか」
「だーめっ!」
諌めるように、指先がちょんと頬を突いた。
「こういうのはね、日頃のお手入れが肝心なんだよ。私が触れるんだから、きちんとしてもらわないと」
「そういえば──確かに栞の髪って、いつもサラサラできれいだよね」
「ふふっ、ありがと。といっても、お母さんがこういうことにはうるさいからなんだけどね。だから、涼のも気になっちゃうの。で……涼がちゃんとしてくれたら、私、もーっとなでなでしてあげたくなっちゃうと思うんだけどなぁ?」
今度は、わしゃわしゃと撫で回される。まるで、犬でも撫でるみたいに。
ちょっとだけ雑な撫で方なのに、もっとしてほしくなる。
「……わかったよ。これから気を付けるようにするよ」
「うんっ! 偉いね、涼。約束だよ」
これ、思ってたよりもずっとやばいなぁ。
栞を甘やかすのも好きだけど、逆もすごくいい……かも。
「……あのさ、栞」
「なぁに?」
「もっと、撫でてよ」
つい、本音が口からこぼれていた。
「ふふっ。涼も、私と同じで甘えん坊さんだね」
「……しょうがないじゃん。こんなこと言えるの、栞だけなんだから」
本当なら恥ずかしくてしょうがないはずなのに、不思議と栞になら平気だった。
少しくらい甘えても、栞は許してくれる。
むしろ、喜んで甘えさせてくれるだろう。
「いいよ」
栞の囁きが、耳をくすぐる。その熱が、俺の心を丸裸にしていくようで。
「涼が満足するまで、いーっぱいよしよししてあげるからねぇ」
「……うん」
ちらっと振り向きかけた瞬間、頭ごとがっちりと栞の胸元に抱えられた。顔全体が、幸せな柔らかさに包まれる。
「……んむっ?!」
「あーん、もうっ! 涼ってば、可愛すぎるよぉ」
視界と口が塞がれて、うまく息ができない。酸素を求めて鼻から息を吸い込むと、栞の甘い香りに頭がくらくらする。
思わず、栞の背中をとんっと叩く。
「……ちょっ、さすがに息ができないって」
「あ……ごめんね」
そう言いながらも、栞はなかなか解放してくれない。
「でも、少しだけ我慢してね。大丈夫、大丈夫だから」
「……っ!」
最後にぎゅっとされて、頬擦りされて、ようやく腕が緩む。でも、完全には離れない。
「えへへ……これくらいなら苦しくない、かな?」
「うん、今は平気」
「じゃあ、このまま。もうちょっとだけ──こうさせてね」
また抱き寄せられる。
さっきよりも優しい力加減なのに、振りほどけない。
それどころか──
これ……なんかダメになりそう。
栞の甘やかしは、まるで底のない沼のようで。俺は抗えない誘惑にどっぷり沈んでいく。
そして、栞が『もうちょっと』なんかで終わるわけもなく。
やけに熱のこもったよしよし攻撃は、文乃さんが昼食に呼びに来るまで続いた。




