第54話 栞の部屋と、覚えのない写真
朝目覚めると、スマホに栞からメッセージが届いていた。
寝ぼけ眼のまま通知をタップすると、眠気の残滓はきれいさっぱり吹き飛んだ。
……ちょっと栞っ?!
時間差の罠を仕掛けるとか、反則だって!
栞とのチャット画面の背景が、昨日の頬キス写真になっていた。
ロック画面の壁紙はむしろ囮で、本命はこっちだったわけか。まんまとしてやられた気分だった。
でもまぁ、このままにしとこうかな。
どうせ、俺しか見ない画面だし。
それに……下手に変えたら、あとが怖いし。
それはさておき、本題は栞からのメッセージだ。受信時間は約三十分前。内容はというと。
『おはよ、涼! 美容室の予約ね、今日空いてるみたいだから取っておいたよ!』
栞……仕事早すぎ。
苦笑しつつ、返信を打ち込む。
『おはよう、栞。今起きたよ。予約って、何時に取ったの?』
送信と同時に既読がついた。もしかすると、俺が起きるのを待っていてくれたのかもしれない。そう思うと、健気な栞に頬が緩む。
『午後の二時だよ! だから、朝ごはん食べたらすぐうちに来てね!』
うん……?
なんかそれ、おかしくないか?
『午後から、なんだよね……?』
『そうだけど、今の髪型の涼は今日で見納めなんだもん。なら、切っちゃう前にしっかり堪能しとかなきゃでしょ?』
でしょ、って言われても……ねぇ?
こんなボサボサ頭のなにを堪能するのかはわからないけど──
『まぁ俺も早く栞に会いたいし、急いで準備して行くよ』
『うんっ! 待ってるね♪』
あぁもう……俺の彼女が可愛い!
文字だけなのに、うきうきしている姿が目に浮かぶ。
付き合い始めてから、ますます栞が可愛く思えるようになった。骨抜きにされてるって、こういうことを言うのかもしれない。
そんな栞を待たせるのが忍びなくて、最速で朝食と身支度を済ませる。それから、母さんに一言だけ告げて家を飛び出した。
栞の家に到着してインターホンを押すと、出迎えてくれたのは栞──ではなく、文乃さんだった。
「いらっしゃい、涼くん」
「おはようございます。こんな朝早くからすみません」
「そんなこと気にしなくていいのよ。ほら、あがってちょうだい」
「あ、はい、お邪魔します」
家の中に招き入れられた俺は、靴を脱ぎ、周りを見渡す。真っ先に出迎えてくれると思っていた栞の姿が見えなかった。
「あの……栞は?」
「あぁ、あの子なら──」
文乃さんがそう口にした瞬間、リビングの方からドタバタと音が響いてくる。勢いよくドアが開いて、びょんと飛び出してきたのは栞だった。
「涼っ! 会いたかったよぉっ!」
咄嗟に受け止めると、甘えるように胸元にすりすりと頬擦りされる。
「ちょ、ちょっと、栞?! 文乃さんの前だよっ!」
「そんなの気にしないもんっ。だって、半日ぶりの涼なんだよ? 連絡もらってから、ずっと待ってたんだからっ!」
「あらぁ? そんなこと言って、さっきまでソファで居眠りしてたのは誰だったかしら?」
「……そうなの?」
「それは……ちょっと夜更かししたから眠かっただけで──待ってたのは、本当なんだよ? だから、涼の声が聞こえてすぐ出てきたし……」
夜更かしって、もしかして──
あの後、遅くまで俺の髪型の参考資料を探してくれてたってこと、なのかな。
だとしたら……そんなの嬉しすぎるって。
「そっか……。ありがと、栞」
ぎゅっと抱きしめ返すと、なぜか今度は栞が慌て始めた。
「はわわっ……! お母さんが見てるよぉ……」
「そんなの気にしないって言ったの、誰だっけ? あ、そうだ──文乃さん」
これだけ見せつけるようにしておいて今更かもしれないが、文乃さんには──きちんと伝えておきたいことがあった。
「なにかしら、涼くん?」
「もう聞いてるかもしれないですけど。俺たち、付き合うことになりました。栞のこと、大事にするので……その、よろしくお願いします」
文乃さんは一瞬だけ大きく目を見開き、それから優しい目をして微笑んだ。
「涼くんは真面目なのね。こちらこそ、よろしくお願いするわ。甘えん坊な娘で大変かもしれないけど、ね?」
「あーっ! お母さんまでそんなこと言うっ!」
「だって事実じゃない? 会っていきなり、そんなにべったりなんだもの」
「これくらい普通だもんっ! だって……付き合ってるんだから。ね、涼?」
「う、うん」
「というわけで、そろそろ私のお部屋、行こ? やっぱり、お母さんがいると落ち着かないから」
栞は俺の手を引いて、階段を上がっていく。この家に来るのは二度目だが、栞の部屋に入るのはこれが初めて。俺は少しだけ緊張しながら、栞のあとに続く。
「ここが私の部屋だよ」
栞がドアを開くと、ふわりといい香りが漂ってきた。俺の大好きな、栞の匂い。
落ち着かなさに視線を巡らせると、きゅっと強く手を握られた。
「あんまり見ないで。恥ずかしいよ……」
「そう言われてもねぇ……。栞だって、俺の部屋じっくり見たじゃん」
「そうだけどぉ……。ほら、つまらない部屋でしょ……?」
「そんなことないと思うけど──」
整理整頓された室内。でも、カーテンは淡いピンク色だし、家具なんかも可愛らしいデザインで──ちゃんと女の子の部屋だった。
ただ、一つだけすごく気になるものが目に留まる。
「あのさ、栞」
「うん、なぁに?」
「えっと……枕元のアレって、俺が見てもいいやつ?」
栞の視線が、ゆっくりとベッドに向かう。そこには、俺の知らない俺の写真が、フォトフレームに入れられて飾られていた。
俺が間抜けな顔で眠っている写真だった。
一瞬で、栞の顔が真っ赤に染まる。そして、慌てた様子で写真を手に取り、俺から隠すように胸に抱きしめた。
「あ、あの、これはその……片付けるの、忘れちゃった。えへへ……」
必死で誤魔化そうとしているが、そうはいかない。俺は栞に歩み寄り、頭にポンと手を置いた。
「それ、撮ったのいつ?」
「……水希さんと二人でお買い物行った後、だよ。涼が気持ちよさそうにお昼寝してたから、つい。勝手に撮って……ごめんなさい」
栞は怒られると思ったのか、しょんぼりと眉を下げて肩を落とす。その顔が可愛くて、なんだかいじめたくなってしまう。
「で……なんで、そんな写真撮ったの?」
「だって……」
「だって、なに?」
栞の瞳が今にも泣き出しそうに、うるうると涙をためて俺を見上げる。
「涼のこと、好きだったんだもん……。でも、まだ付き合う前だったし、直接写真が欲しいなんて言えなくて。というか──涼の寝顔が可愛すぎるのがいけないのっ! あんなの、私じゃなくても撮っちゃうもんっ!」
言い訳の途中から、栞は完全に開き直っていた。責任を俺に押し付けて、ポコポコと胸を叩いてくる。
まったく痛くはないが、違う意味でダメージが大きい。両手を掴んで止めさせると、申し訳なさそうな顔でじっと見つめられた。
「……ごめんね。こんなの、よくないよね。あとで、片付けておくから……お願い、嫌いにならないで」
「……別に嫌いになんてならないって。ちょっとびっくりしただけだよ。あと……自分の寝顔とか、普通に恥ずかしいし」
「じゃあ、いいの? この写真、飾ったままにしてても、いい?」
「俺が来る時は見えないようにしてくれてれば、だけどね。そんなに大事にしてくれてるの、捨てろだなんて言えないよ」
「……涼」
一呼吸おいてから、栞は小さく笑った。
「やっぱり、涼は優しいね。大好き」
このタイミングでそれはずるいって……。
俺はもうなにも言わずに、栞をしっかりと抱きしめた。栞も、ほっと息を吐きながら身体を預けてくる。そして、ぽつりと呟くように話し始めた。
「あのね、涼。実は私──これまでずっと、寝つきが悪かったの」
「それは……あの件のせい、だよね?」
「うん、そう。涼と話すようになってからは少しずつ良くなってたんだけど、なかなか完全にはね。暗い部屋で一人だと、どうしても嫌なこととか考えちゃうから」
栞の抱える心の傷が深いことは、俺もよく知っている。それは、睡眠の質にまで影響を及ぼしていたらしい。
「でもね、涼の写真を飾ってから、すごくよく眠れるようになったの。涼におやすみって言って、それから目を閉じるとね、嫌なことなんて一つも浮かんでこなくなるんだよ」
「……栞」
あぁ、そっか。
栞はそんなふうに、俺の写真を使ってたのか。
なら──俺にできることが、他にもあるんじゃないか。恋人になった今なら、もっと。
考えて、思い出した。
昨夜の電話での、栞の弾んだ声を。
「じゃあさ……これからは毎日、寝る前に通話するようにしようか」
「……え?」
「少しでもいいからさ──話をして、おやすみって言えたらいいかなって思うんだけど……どうかな?」
「毎日って……大変だよ? 私たぶん、少しじゃ済まなくなるよ?」
「それでもいいよ。だって、俺が栞の声を聞きたいだけだから」
「本当に、毎日してくれる? 途中でやめようって言われても、私聞かないよ? 涼からしてくれなかったら……出るまでかけ続けちゃうよ?」
「大丈夫、約束するよ」
栞の肩が、かすかに震えていた。それでも、ぐいっと目元を拭い、笑顔を浮かべる。
「えへ……毎日の快眠が約束されちゃった。でも、絶対に長電話になるから、そこだけは覚悟しておいてね?」
「あはは……お互い寝不足にならないようにしないとだね」
「私は少しくらい寝不足でも、涼さえいれば元気いっぱいだもーんっ」
たった一つの約束で、栞はこんなにも幸せそうな顔をしてくれる。その顔を見ると、俺までどうしようもないほど満たされる。
俺たちはしばらくの間、抱き合ったままくすくすと笑っていた。




