第48話 着せ替えと、染められる心
「涼っ! こっちの方行ってみよっ!」
栞は、俺の腕を引いて人の隙間をどんどんすり抜けていく。あの二人に遭遇した時、震えていたのが嘘のように晴れやかな表情で。その横顔を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
……よかった。
栞に無理をさせないかと心配していたけれど、この調子なら問題はなさそうだ。
でも……ちょっと困るんだよなぁ。
引っ張られるのはまぁいいとして、栞の密着度が明らかに増していた。もちろん、それが嫌なわけではない。
ニコニコ笑う栞は可愛いし、ずっとふんわりいい匂いがしてるし、押し付けられた柔らかさは幸せだし。痛いくらいに、心拍数が上がっていた。
どうやら、俺の理性耐久レースはまだ始まったばかりらしい。むしろ、ここからが本番といってもいい。
「ねぇねぇっ! ちょっとここ覗いてもいいかなっ?」
栞の声が弾む。俺が連れていかれたのは、メンズの服を取り扱うショップだった。
「……あれ? 今日って、栞の服を探しに来たんじゃなかったっけ?」
「そうだけど、涼のも見るって言ってあったでしょ。それにね、水希さんからもお願いされてるから」
「母さんから? なにを?」
「ふふーん! これ見て」
得意げに笑い、栞は俺の目の前にスマホの画面を突きつけた。そこに表示されていたのは、栞と母さんのやり取りだった。
「え、ちょっと待って! 栞、いつの間に母さんとこんな……」
「いいから、ちゃんと読んで」
「う、うん……」
俺の知らないうちに栞と母さんが連絡先を交換していたことには驚きだったが、ひとまずは言われるままに内容に目を通してみる。
『栞ちゃん、明日は涼とお出かけなんですってね。あの子、出不精だから連れ出してくれて助かるわ。ありがとね』
『いえいえ。むしろ、私のわがままに涼を付き合わせるだけというか……』
『それでもよ。二人とも、いつも勉強頑張ってて偉いけど、たまには遊びに出かけるのも大事なことだしね。お付き合いを始めて最初のデートだもの、楽しんでらっしゃい』
『はいっ! ありがとうございます』
『ところで、もう行き先は決まってるの?』
『ショッピングモールに行くことになってますよ。二人でお洋服見ようねって話してるんです』
『あら、いいわね。そういうことなら、栞ちゃんに一つお願いがあるんだけど』
『なんですか?』
『ほら、涼の服装ってみすぼらしいというか、栞ちゃんと並んで歩かせるには微妙だと思うのよ。だからね、栞ちゃん好みに見繕ってあげてくれないかしら? 私が言ってもちっとも聞かないけど、栞ちゃんの言うことならちゃんと聞くと思うし』
『そういうことなら任せてください! あ、でも……私はみすぼらしいなんて思ってませんからね?』
『わかってるわよ。栞ちゃん、涼のこと大好きだものね。とにかく、あとで涼のお財布にお金を忍ばせておくから、現地でそれとなく伝えてあげてちょうだい』
『わかりました!』
……まじかよ。
慌てて財布の中身を確認すると、フードコートでは気付かなかったが、確かに増えている。
それはありがたいけど……さすがにみすぼらしいは言い過ぎだろ。
しかも、直接俺をディスるならともかく、栞に言うなんて。母さんのせいで、交際直後にいきなり嫌われたらどうしてくれるんだ。
……いや、今の栞を見る限り、その心配はなさそうだけど。
むしろ──
そんな心配をする方が馬鹿らしく思えてくる。
「というわけでねっ、大役を仰せ使ってるの」
「……まったく、母さんは。ごめん、栞。せっかくの時間を俺に使わせて」
「なんで謝るの? 私、ちゃんと楽しんでるよ。それにね、涼をもっと私好みにしていいって言われてるし──そんなの張り切っちゃうに決まってるもん。ねっ、いいことづくしでしょ?」
「……そう、なのかな?」
「そうなの! とにかく、涼に拒否権なんてないんだからっ」
栞は背伸びをして、ぐっと顔を寄せてくる。まるで、俺の逃げ道をふさぐみたいに。その言い方は冗談めかしていたけれど、なぜか本気で逆らえない気がした。
「なら……栞にお任せしちゃおうかな。でも、お手柔らかにね?」
「んふふっ、いーやっ! 私が満足するまで、いっぱい試着してもらうのっ」
そう言うと、栞はぱっと俺の腕から離れて、店内に突入していく。
「さぁてっ! 涼にはどんなのが似合うかなぁ。あんまり派手なタイプじゃないしー……きっとすっきりしたのがいいよねぇ」
ぶつぶつと呟きながら、あれこれと服を手に取っては、俺と見比べる。その表情は、本人が言っていた通り、すごく楽しそうだった。
……ただ俺の服を選んでるだけなのに。
こんな顔してくれるの、本当、ずるいよなぁ。
「あっ、これいいかもっ! あ、こっちもっ! 涼っ、試着してみて!」
「はいはい、仰せのままに……着せ替え人形になりますよ」
俺は栞に手渡された服と共に、試着室へと押し込まれることになった。
ちらっと振り返ると、栞は期待に満ちた目で俺を見ていた。カーテンを閉めると、外の喧騒が少しだけ遠くなった。
手に持っているのは、栞が選んでくれた服。白地のTシャツと爽やかなブルーのシャツ。いかにも俺じゃ選ばない感じのやつだ。
……これ、本当に俺に似合うのかな?
不安になりつつも、着替えを開始する。
サイズは問題なさそうだ。それどころか、思っていたよりも身体に馴染む感じがした。
備え付けの姿見に、全身を映してみる。
見慣れているはずの自分。
なのに、どこか違和感のある自分がそこにいた。
「……なんか、変な感じだなぁ」
そんなことを呟いていると、カーテンの向こう側から声が飛んできた。
「涼、まだー?」
「い、今着終わったとこ」
「じゃあ、開けていいよね」
「あ、まっ──」
心の準備をする間もなく、シャッとカーテンが開く。
「……」
栞は顔をこわばらせ、そのままぴたりと動きを止めた。
「え……なにその反応」
思わず声をかけると、栞は一瞬だけ視線をそらして、それからまたこっちを見てくる。俺の上半身を上から下まで、じっと。何度も何度も、確かめるみたいに。
「……えっと、どう?」
恐る恐る尋ねると、
「……いい」
栞の口から、ぽつりとそんな言葉がこぼれた。
「え?」
「いいよっ、すっごくいいっ!」
でれっと、栞の表情が崩れた。
「はわぁ……涼、かっこいいよぉ」
ふらりと、栞は一歩俺に近付いた。
うっとりとした視線に、心臓が止まりそうになる。
……いや。いっそ止まってしまった方が楽だったかもしれない。
お気に召してくれたのは、嬉しいけど──
栞は腕の中にさらに何着もの服を抱えていた。俺が着替えている間に、持ってきたのだろう。
「あの、栞……? それって……」
「あぁこれ? 次に着てもらうやつだよっ」
「今ので、満足したんじゃ……?」
「そんなわけないでしょ。まだまだこれからだもんっ! だからはい。どんどん試着してってね!」
いい笑顔で、俺は服を押し付けられた。
冷や汗が、頬を伝う。一回褒められただけでこれなのに、まったく終わりが見えない。
でも、
「かっこいい涼、たくさん見たいなぁ?」
こんなことを言われたら、もうやるしかない。
「あんまり、過度な期待はしないでよ……?」
念のために保険をかけて、また試着室に引きこもった。
それから俺は、栞に言われるがままに試着を続けた。時には難しい顔をされ、時には絶賛されて。気付けば俺もすっかり楽しんでいた。
ころころ変わる栞の表情に、夢中になっていたんだ。
ただ、結局は最初に着たものを超えられなかったようで、この店ではその二着の購入が決まった。店員にタグを取ってもらい、そのまま着ていくことに。
その途中、
「彼女さん、センスいいですね。お似合いですよ」
と店員に言われ、俺よりも栞が悶絶していた。
さらに何店舗も回り、細身の黒いパンツも購入して──
最終的に、俺はショッピングモールに到着した時とは、まったく違う服装になっていた。
一式揃えてようやく落ち着いたのか、栞は俺の左腕にべったりとくっついて照れ笑いを浮かべている。
「えへへっ。涼っ、すっごく似合ってる。かっこいいよっ!」
「……ありがと。栞のおかげだね。俺じゃ絶対こういうの選ばなかったよ」
なんだろう、これ。
栞に服を見繕ってもらって、褒めてもらって。まるで、栞に染められていくような感覚。
それが不思議と、たまらなく嬉しかった。




