第47話 名前呼びの、独占欲
「さーて。そうと決まれば──」
そう言って、楓さんはグイっとグラスをあおった。突き刺さってるストローなんて使わず、ごくごくと喉を鳴らす。それはもう、豪快でいい飲みっぷりだった。グラスの中身はもちろんお酒なんかじゃなくて、ジンジャエールだったけども。
そして、テーブルにコンッとグラスを置いた。
「決めなきゃいけないことがあるよねっ!」
「決めるって、なにを?」
楓さんの言っていることがさっぱりわからなくて、俺と栞は揃って首を傾げた。柊木くんだけが、呆れた顔で楓さんを見ていた。
「そりゃ、二人の呼び方でしょ! これから仲良くやってこうっていうのにさ、いつまでも黒羽さん、高原くんなんて他人行儀じゃんっ!」
「あー……。確かに一理ある、かな?」
呼び方によって距離が縮まるというのは、俺も経験済みだ。
縮まりすぎて、栞とは恋人同士にまでなっているわけだし。
「それで、具体的にはどうするの?」
「うーん……そうだねぇ」
楓さんは腕を組み目を閉じて考え込む。数秒後、ぱちんと手を叩いた。
「しおりんっ! しおりんなんてどうかなっ?」
「しお、りん……?」
栞は呆気にとられたように、ぽかんと口を開けた。
柊木くんは、やれやれと首を振る。
「彩……お前はまーた安直なあだ名を」
「なによぉ、かわいーでしょ! ねっ、しーおりんっ?」
「え……う、うん」
「ほーらねっ!」
「まぁ、本人がいいならいいけどよ」
「えっと──じゃあ、私はどう呼べば……?」
楓さんは手に持ったグラスをくるくる回して、楽しそうに笑う。
「それは自分で考えてもらわないとっ。あっ、でも名字呼びは禁止だよっ! ……って、あたしの名前、知ってるよね?」
「知ってる、けど……。なら──彩香、でいいかな?」
栞が名前を呼んだ瞬間、楓さんがニカッと歯を見せた。
「いいねいいねっ! となると、次は高原くんだけど……。どうしよっかなぁ。涼くん、とか? 普通すぎるかな?」
「それは、ダメっ!」
不意に、栞が声を荒げた。切羽詰まったように、身を乗り出して。
ぴたりと、空気が固まった。周囲の喧騒すら、静かになった気がした。
「……しおりん?」
「あ……えっと。その……大きい声出して、ごめんなさい。でも、私のことは好きに呼んでくれていいけど……涼だけは──」
栞がぎゅっと、俺の腕にしがみつく。肩に額を押し付けて。その姿はまるで、誰にも渡すまいとしているようだった。
「私以外の女の子に、名前で呼んでほしくない。だって、それは私が涼から勝ち取ったものだもん。涼が初めて叶えてくれた……私のお願い、なんだもん。だから──そんな簡単に誰かにあげちゃやだよ」
「……栞」
じん、と来た。
胸の奥を、静かに掴まれたみたいに。
俺たちが呼び方を改めた日のことは、はっきりと覚えている。
『栞』と呼ぶだけでむずがゆくて、『涼』と呼ばれるたびに嬉しくて。
あれからあまり時間は経っていないけれど、この呼び方はすでに俺の中でも──特別で、大切なものになっていた。
俺だって、栞が他の男に馴れ馴れしく呼び捨てにされていたら、あまりよい気はしないだろう。たぶん、それと同じことなんだ。
「ごめん、楓さん。悪いんだけど、俺のことは名字で呼んでくれないかな。その方が──栞も安心すると思うから」
「……涼」
栞が顔を上げた。ほっとしたような表情で微笑む。俺が大好きな、栞の笑顔だった。
楓さんも笑っていた。栞とは違って、どこか面白がっているような、含みのある笑みだったが。
「……あー、なるほどねぇ」
「おい彩……お前、ほどほどにしとけよ」
「えーっ、そんなのムーリーっ! だってこれ、独占欲ってことでしょ? それだけ高原くんのことが大好きってことじゃん。やーんっ、しおりん可愛すぎるぅっ!」
「か、かわっ……?! えっ、えっ?!」
栞は素っ頓狂な声を上げ、視線で柊木くんに助けを求めた。けれど、返ってきたのは小さなため息だった。
「はぁ……。こいつはこういうやつなんだよ。まぁ、悪気があるわけじゃねぇから許してやってくれ」
「べ、別に許すもなにもないけど……」
「それなら良かった」
柊木くんはそう言うと、楓さんを軽く睨みつけた。一人でヒートアップしていた楓さんも、それでしゅんとおとなしくなる。
なんだか、この二人の関係性が少しだけ垣間見えたようだった。
「ところで黒羽さん。さっき、『私以外の女の子』って言ってたよな? だったら、俺が呼ぶ分には問題ねぇってことだよな?」
「それは……うん。男の子同士なら──いい、のかな?」
確かめるように、栞はちらっと俺を見た。頷いてみせると、ほっと息を吐いて俺の腕から離れていった。繋いだ手だけを残して。
「よっしゃ。んじゃ、俺は遠慮なく涼って呼ばせてもらうぜ」
「なら──俺も遥って……呼んだ方がいいよね」
「おう」
遥は軽く返事をして、ふらりと立ち上がった。
「さて、彩──俺らはそろそろ行くぞ」
「えーっ、なんで? せっかく会ったんだし、もう少し一緒に遊ぼうよぉ!」
「なんでって……お前も見ただろ、さっきのあれ」
「あー……あれね。うんうん、あれはなかなかだったよね」
さっきのあれって……なんのこと?
俺がその答えにたどり着くよりも早く、楓さんもぴょんっと席を立つ。
「しおりんと高原くん、外でも抱き合っちゃうくらいラブラブなんだもんね。二人っきりのあま~い時間を邪魔しちゃってごめんねっ」
「……っ?!」
あ、あれかぁっ……!
顔が一気に熱くなる。
そうだった。
俺たち、人目も憚らずに……。
隣を見ると、栞も同じように頬を赤くしていた。
「いやっ、あれはちょっとした確認作業というかっ……!」
「言い訳なんかしなくても大丈夫っ。ちゃーんとわかってるから!」
楓さんはにやにやと笑いながら、ひらひらと手を振る。
「んじゃ、お邪魔虫はこれで退散するから、あとはごゆっくりってことで。ねっ、遥?」
「ん。まぁ、イチャつきたい気持ちもわかるが、ほどほどにな」
「だからっ……!」
俺の言葉なんて、まったく聞いちゃいない。二人はくるりと背を向けて歩き出した。
少し離れたところで楓さんが振り返り、大きく手を振る。
「二人ともー! また登校日に、学校でねー!」
それを最後に、人混みの中へと消えていった。
ぽつんと取り残された、俺と栞。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、静かになる。
「……行っちゃったね」
「……だね」
自然と、繋いだままの手に力がこもる。
「……ねぇ、涼」
「なに?」
「えっと、ね……私たちも、さっきの続き、しよ?」
「続きって……?」
どくんと、心臓が跳ねた。
到着早々のハグが、頭から離れない。
「デート、だよ。また中断しちゃったけど……せっかく来たんだから、いっぱい回ろ?」
上目遣いでそう言って、甘えるように腕を絡めてくる。そこにはもう、さっきまでの必死さはなかった。
「……あとね──私、ほどほどとか……無理だよ。あんなふうに誤魔化されて、ちょっと寂しかったもん。だから──」
栞はぐいっと俺の腕を引っ張りながら、立ち上がる。
「今日は、とことん付き合ってもらうからね」
囁くような小さな声で、でもはっきりと。
そう言って、栞はふわりと微笑んだ。
「……わかったよ。というか、最初からそのつもりだし」
「うんっ」
そんなやり取りを交わしながら、俺たちも人混みの中へと踏み出した。




