第45話 恋人の熱と、開く扉
およそ三十分の時間をかけ、バスはショッピングモールのバス停へと入っていく。
バスに揺られている間、栞はずっとくっつきっぱなし。そのせいで、俺の理性はすでに限界ギリギリ。
それでも栞は離れようとせず、降車の時には運転手に生温かくも微笑ましげな目線を向けられてしまったりして。俺はもう、平静を装うのに必死だった。
一方の栞は、途中から真っ赤な顔で俯き、黙り込んでしまっていた。少しだけ、唇が尖っているようにも見える。
気まずい沈黙。
ショッピングモールの入り口前で、ついに俺は耐えられなくなった。
「……あの、栞? さっきから静かだけど……調子でも悪い?」
「別に、悪くないもん……。せっかく頑張ってるのに、涼だけ平気そうで拗ねてるなんてことないんだからぁっ!」
栞の叫びに、俺はぽかんと口を開けた。
あー……なるほど?
これはあれか。
栞的には、俺にもっと動揺して欲しかったってことか。
「いや……俺、全然平気じゃないけど?」
「嘘だもんっ」
「本当だって! ずっと心臓爆発しそうだったし」
「じゃあ……確認させてくれる?」
「確認って、どうやって……」
「そんなの簡単だよ。こうやって──」
とんっ、と栞の耳が俺の胸元に押し付けられた。まるで、抱きつくように。周りの視線なんて、まったく気にしていないみたいに。
「し、栞っ?!」
これはこれで、ものすごく心臓に悪い。けれど栞は、俺の背に腕を回し、うっとりと息を吐いた。
「……本当だぁ。涼、ドキドキしてる。私で、こうなってくれてるんだよね?」
「う、うん……。それ以外に、ないでしょ」
「そっか。私だけじゃなかったんだね。えへっ、嬉しいっ」
……これは、まずいなぁ。
栞、可愛すぎ。
こんなことされたら、俺だって──
栞の前には、俺の理性はあまりにも脆すぎた。
思考よりも、身体が先に動く。片腕は、栞の背に。もう片手は、栞の頭に。
ぎゅっと抱き寄せ、髪を梳く。栞の髪の匂いが、胸いっぱいに広がる。
栞が世界の中心で、栞だけが世界の全てになってしまったような感覚。この愛おしい女の子を、もっともっと甘やかしてあげたい。
「……栞」
「うん……涼」
自然と、視線が絡み合う。栞の頬に手を滑らせようとした時──
「ありゃ? あれって、高原くんじゃない?」
「ん〜? あぁ、本当だな」
横から、聞き覚えのある声がした。しかも、その足音はどんどん近付いてくる。
顔が隠れている栞はともかく、どうやら俺はしっかりと認識されているらしい。
俺はぴしりと、金縛りにあったように固まった。同時に、腕の中の栞が肩を跳ねさせる。
「やっほー! 高原くんっ!」
「お、おい……彩っ!」
一学期の間、教室でこの声を聞かなかった日はない。といっても、会話をすることはなかったが。
一人目は、楓彩香。
もう一人は、柊木遥。
入学初日にその存在感を強く示した、うちのクラスの賑やかコンビだ。
このまま素通りしてくれれば──
なんて思ったけど。声までかけられてしまったら、もう腹を括るしかない。
気付けば、栞を背に隠すように一歩前に出ていた。華奢な身体が、小刻みに震えているのに気付いたから。
でも、この状況じゃ……さすがに無視はできない、か。
「……こんなところで奇遇だね。柊木くん、楓さん」
「おう、そうだな──って……高原、お前雰囲気変わったか?」
「そう、かな……?」
「俺もうまく言えねぇけどさ……なんか背筋が伸びたっつーか、顔付きが明るくなったっつーか──そもそも、前は俺が話しかけてもこんなに喋んなかったろ」
「そう、だったね」
教室で彼に話しかけられたことは、何度かある。でも俺は、その度に言葉に詰まり、そそくさと逃げ出していた。
あれはたぶん、いつも一人だった俺への、彼なりの気遣いだったんだろう。それを俺は、ことごとくふいにしてきた。
「ごめん。人と話すの、苦手だったんだ」
「いや、いいって。そうだろうなとは思ってたしな。俺の方こそ、無理に話しかけて悪かったよ」
柊木くんは、さほど気にした様子もなく苦笑した。そして、その視線が俺の背後に流れる。
「……で。高原が変わったのは、その子のおかげってわけか?」
「うん、まぁね」
「高原くんの彼女さんなんでしょっ? さっきからずっと気になってたんだよねっ! せっかくだし、紹介してよ!」
勢いよく、身を乗り出す楓さん。
その瞬間、背後の栞の手が、きゅっと俺の服を掴んだ。
「……悪いんだけど、少し待ってもらってもいいかな?」
「えっ、うん。いいけど?」
「ありがと」
俺は栞の手を引いて、二人から距離を取る。栞は、どこか申し訳なさそうで、辛そうな顔をしていた。
「……ごめんね、涼。私がもっと普通なら、こんな面倒くさいことにはならなかったのに」
「なに言ってるの。栞じゃなかったら、そもそも俺は好きになってないよ」
「……涼」
今にも泣き出しそうな顔で、栞が見上げてくる。その表情を見て、なんとなく理解した。
栞のトラウマは、美紀さんとの話し合いを経ても、完全には癒えていない。
入学早々、クラス全員を拒絶したことにも、負い目を感じているのかもしれない。
「栞は──まだ他人が怖い?」
「うん、そうみたい……。涼が一緒なら平気って思ってたんだけど、ダメだった……」
「だよね。そう簡単にどうにかなることじゃないもんね。けど、俺はチャンスかなって思うんだよ」
「チャンス、って……?」
「苦手なものを克服するチャンス、かな。俺も正直なところ、栞以外の人はまだ苦手だよ。でも、いつまでもこのままじゃダメなのも知ってる。どうにかしたいって、ずっと思ってた」
栞のトラウマに比べたら、俺の問題なんて取るに足らないかもしれない。でも、だからこそ、俺はさっき、あの二人とちゃんと言葉を交わした。
手本、なんて偉そうなことを言えた立場じゃないけど、情けない背中だけは見せないように。
「栞もさ──ずっと怖がってるのは、辛いでしょ?」
「……うん」
「なら、少しだけ頑張ってみない? 俺も一緒に頑張るから」
「でも……」
栞はまだ、迷ってる。
それを取り除くように、その手をそっと両手で包み込んだ。
「俺さ……二学期になったら、学校でも栞と恋人として過ごしたいんだよね。放課後の図書室でコソコソ会うだけじゃなくて。文化祭とか、体育祭とか、そういうイベントも栞と二人で楽しみたいよ。そのためにも──」
「……涼っ」
栞は震える声で、俺の言葉を遮った。
「涼は……ずっと私の味方でいてくれる? もしまた、あの時みたいなことになっても……」
「俺はさ……もう味方とか、そういうんじゃないよ。だって俺たち、恋人同士じゃん。もし嫌われるようなことがあっても、その時は俺も一緒だから」
迷うことなく、言い切った。
たとえ世界中が栞を否定したとしても。
俺だけは、絶対に栞を裏切らない。
それはもう、とっくに決めている。
栞の過去に触れた、あの時から。
「……わかったよ」
ほんの少しだけ、視線が揺れた。
それでも──栞はぐっと顔を上げた。
「私、頑張るね──涼と二人なら、やれそうな気がしてきたよ」
「うん、一緒に頑張ろう」
俺と栞は、しっかりと手を握り直した。決して解けないように、指と指を絡めて。
そうして、待たせている二人のもとへ戻る。栞に目配せをすると、こくんと頷きが返ってきた。
「お待たせ。じゃあ、紹介するけど……俺の彼女の、栞です。黒羽、栞──二人も、知ってるでしょ?」
「黒羽です……。えっと、お久しぶりです──で、いいのかな?」
「くろは……」
「しおり、って……?」
柊木くんと楓さんの目が点になり、その顔がみるみる驚愕に染まっていく。
そして、
「「ええぇっ?!?! 黒羽さんっ?!?!」」
周囲に、二人の叫び声が響き渡った。




