第44話 待ち合わせと、同じ想い
「……しまった。まだこんな時間じゃん」
俺はスマホの画面に視線を落として、ぽつりと独り言をこぼした。
現在の時刻は九時前。
栞と約束した時間は九時半。
なのに、俺はすでに待ち合わせ場所に到着していた。もちろん、栞はまだ来ていない。
自分でも、わかってる。
家を出るのが早すぎたんだって。
でも、仕方ないよなぁ。
「……はぁ」
小さく、ため息がもれた。
今日は、栞とデート。
楽しみで、昨夜はあまり眠れなかった。それでも早い時間に目が覚めて、ソワソワと落ち着かなくて、家を飛び出してきてしまった。
少しでも早く、栞に会いたくて。
……こんなに早く来ても、会えるはずないのに。
俺は思わず、空を見上げた。
まだ午前中だというのに、夏の日差しが容赦なく照り付けてくる。
暑い。ものすごく暑い。
汗がつぅっと頬を流れ落ちた、その瞬間──
俺の視界が、ふっと暗転した。同時に、今一番聞きたかった声が耳元で弾む。
「っ?!」
「んふふっ、だーれだっ?」
「うーん……誰かな?」
俺はあえて、答えをはぐらかした。
このじゃれ合いを、少しでも引き延ばしたくて。
「あれれぇ、わかんないの? じゃあ、こうしたらわかってくれるかなぁ?」
そんな言葉と同時に、背中に柔らかな温もりが押し付けられた。ぴったりと、隙間を埋めるように。
それは……さすがに反則でしょ?!
普段はあんまり意識しないように気を付けてたのに!
俺は慌てて振り返った。
すぐ目の前に、いたずらが成功した子供のような、屈託のない栞の笑顔。気付けば、俺はその身体を抱き寄せていた。
「……栞、やりすぎ」
「あ、やっぱりわかってたんだ?」
「そりゃわかるって。俺が栞の声を聞き間違えるわけないでしょ。でも、ちょっとびっくりしたよ。急に真っ暗になるから」
「えへへ、ごめんね。なんか嬉しくって」
「嬉しいって……いたずらするほど?」
「うん。だって、絶対早いよなぁって思って来たのに、涼の方が先に待ってるんだもん。それくらい今日のこと楽しみにしててくれたんだって思ったら、ね」
あぁ、そっか。
俺だけじゃ、なかったんだな。
でも──
栞の言っていることは、少しだけ間違ってる。
「そんなの、楽しみに決まってるよ。だけどね、一番は──栞に会いたかったから、だよ」
「……もうっ」
一瞬、栞が固まる。
みるみる顔が赤く染まっていく。
まるで逃げるように、栞は俺の腕から抜け出した。
「そういうことさらっと言うの、ずるいっ。でも、私も……涼に会いたかったよ。昨日帰ってから、ずっと。私たち、似た者同士、だね?」
「そう、かもね」
ふっと、気が緩んだ。
どうやら、さっきの心配は俺の杞憂だったらしい。
ただ、この先のことで懸念が一つ生まれた。
「あのさ、栞。俺が言えたことじゃないかもしれないんだけど……これから待ち合わせする時は、早くても五分前とかにしない?」
「えっ、なんで?」
「いや……この調子でいくと俺たち、来るのがどんどん早くなりそうかなって。実は俺さ、さっき暑すぎて後悔しかけたんだよね。栞も来てくれたから良かったけどね」
「あ……そう、だよね。お店が開く時間も決まってるし、そもそもバスもまだ来ないもんね」
「そういうこと。まぁ……栞とのんびり待つっていうのも悪くないんだけど、それで熱中症とかになっても困るしね」
「……だね。わかった、これからは五分前に来れるように頑張るっ!」
「あはは……なんか遅刻した人のセリフみたいになってるよ」
実際のところは、まったくの正反対なのだが。
「絶対に遅刻なんてしないもんっ。涼と約束した時は、特にね」
「知ってるよ。栞はしっかり者だもんね」
「そうでもないよ。だって──ねぇ、涼。私たち、もう彼氏彼女なんだよね?」
「え、うん。それが、どうかしたの?」
「だったら──えいっ」
そう言って、栞は俺の手を取った。それから、するりと指を絡めてくる。
「え、ちょ……栞?!」
手を繋いだことは、何度かある。
でも、この繋ぎ方は初めてで──
いわゆる、恋人繋ぎだった。
「ふふっ。今日はデートだもんっ。それにね……涼とこういうの、してみたかったの。涼にはもう、私が甘えん坊だってバレてるみたいだしね」
「……確かに、甘えん坊な彼女だね」
しっかり者で、甘えん坊で、寂しがり屋。
それが、俺の大好きな彼女──栞だ。
「でも、そう言われるの嫌がってなかったっけ?」
「あの時は恥ずかしかっただけで……せっかく恋人になれたんだから、もう遠慮しないことにしたの。というわけで、いっぱいいっぱい涼に甘えていくから、そのつもりでね。──あっ、でも……ダメな時は言ってね。そしたら、なるべく控えるから……」
「ううん、大丈夫だよ。俺も、その……栞に甘えられるのは好き、だからさ」
「涼ならそう言ってくれると思ってたよ。なら、今日はずっとこのままでいようね」
繋いだ手を、にぎにぎされる。
栞の細い指が、俺の指の隙間にぴったりと収まる。指と指が絡み合う。これまでとの違いはそれだけなのに、ドキドキの桁が跳ね上がった。
「それはなんというか、恥ずかしいんだけど……」
「つまり、恥ずかしいだけで嫌じゃないってことだよね。なら、離してあーげないっ。ほら、とりあえず日陰に行くよ。まだまだバス来るまで時間あるし、日焼けしちゃうっ」
「まったく……わかったよ」
容赦なく俺の手を引いていく栞に、思わず苦笑がもれる。その横顔がまた、赤く染まっていたから。
栞もたぶん、恥ずかしいんだ。
なのに、手を離さない。
俺はしっかりと、栞の手を握り返した。
栞の勇気に応えるために。
それから、栞の恋人として、胸を張れるように。
「ねぇ、涼」
バスを待つ間。駅の屋根の下で、栞が呟くように俺を呼んだ。
「うん、なに?」
「私ね……こんなふうに、涼と二人で恋人らしいことを積み上げていきたいの。一つずつ、大切に──それが、当たり前になるまで」
「……栞?」
「急に変なこと言い出してごめんね。昨日、涼が言ってたでしょ? 付き合うって、どうしたらいいのかって。あの時はデートがしたいって答えちゃったけど……よく考えたら、なんか違う気がして。だからね──」
「……ありがと、栞。そんなに真剣に考えてくれてたんだね。俺こそごめん……自分で言ったくせに、デートに浮かれて忘れちゃってたよ」
「ふふっ。それはそれで嬉しいけどね」
「じゃあ……今日はその第一歩ってわけだ。なら、恥ずかしいなんて言ってられないなぁ」
俺は、栞の目をじっと見つめた。繋いだ手にも、自然と力がこもる。
「これから、二人でたくさん積み上げていこうね。思い出も、一緒に」
「……涼。うんっ!」
栞が、にぱっと明るく笑う。
そんなタイミングで、バスがロータリーへと入ってきた。
「あっ、やっとバス来たよ! 乗ろっ!」
「うん、行こうか」
バスの中は、ガラガラだった。
俺たちは後ろの方の二人掛けの席を選んで、腰を下ろした。俺が右側、栞が左側。いつも通りの並びで。
ドアが閉まる。バスはブォンと低いエンジン音を響かせながら、ゆっくりと発車した。
「私……好きになったのが涼で、本当によかったぁ」
エンジン音に紛れるように、うっとりと栞が言う。同時に、腕にぎゅうっと抱きつかれた。手は繋いだままで、肩に頬擦りのおまけ付きで。
「そ、そう言ってもらえるのは光栄なんだけど──これはいくらなんでもくっつきすぎじゃない……?!」
「すぐ嬉しいこと言う涼のせいだもーんっ」
や、柔らかいのが当たってっ……!
こんなの……積み上げペースが速すぎるって!
デートはまだ始まったばかりなのに、早くも俺の心臓は悲鳴をあげていた。




