第4話 初めての衝突と、残された涙
初めて会話を交わした日からずっと、俺は黒羽さんのことが気になっていた。
突然声をかけてきた理由。辛辣な物言いの割に、意外と面倒見がよいところ。それから、最後に見せた、寂しそうな背中。
聞きたいことは、たくさんあった。
教室では話しかけるなと釘を差された手前、堂々と行動を起こすことはできなかったが、つい目で追っていることが増えた。
時折、俺の視線に気が付いたのか、黒羽さんはこちらに顔を向ける。けれど、前髪のカーテンに遮られて目が合うことはなく、すぐにぷいっと顔を背けられてしまう。
おまけに、あれから黒羽さんはなかなか図書室に姿を現してくれなかった。
もしかして、避けられてるんじゃ……。
そう思うと、胸のあたりがモヤモヤして、俺は授業すら身が入らない日々を送ることになった。
調子に乗って「また明日」なんて言ったのがよくなかったのか。それとも、あれは本当に気まぐれだったのか。
もう一度話をしてみたいと願いながらも、自ら声をかけに行く意気地のない自分に腹が立つ。
それでも、俺は日課の図書室通いだけはやめなかった。たぶん、また黒羽さんが来てくれることを心のどこかで期待していたのだろう。
ようやく俺が黒羽さんと接触できたのは、なにもないまま一週間が過ぎ、望みを捨てかけていた頃だった。
相変わらず放課後の図書室で教科書を開いていると、背中側でカチャリとドアの開く音。反射的に振り返ると、ドアのすき間から黒羽さんが顔を覗かせていた。
やっと来てくれた。
それだけで浮かれてしまうほど、俺は黒羽さんを待ち焦がれていたらしい。軽く手を振ってみると、黒羽さんは小走りで駆け寄ってきた。
「いらっしゃい、黒羽さん」
「お邪魔します──って、それは立場が逆じゃないかしら。私、図書委員なのよ?」
「あ、そっか。なら、お邪魔してます、かな?」
「ふふっ、そうね。お邪魔されてます」
初めて、黒羽さんの笑い声を聞いた。こんなにも何気なくて、ほんの短いやり取りだけで笑ってもらえたのだ。それは、寂しい時間を過ごしてきた俺にとっては、とても特別なもののように感じる。
黒羽さんは俺の手元を覗き込むと、またくすりと笑う。
「高原くん、また勉強してる。偉いのね」
「いや、そうでもないよ。最近授業に身が入らなくてさ、少しくらいは自分でやっとかないとって、それだけだよ」
「ふぅん。なら、また教えてあげましょうか?」
「えっ、いいの?」
「私から言い出したんだもの。ここでダメなんて意地悪言わないわよ」
「じゃあ……お願いしようかな」
「はい、お願いされました」
黒羽さんは、前回と同じように俺の左隣の席に腰を下ろし、身体を寄せてくる。
「で、なにから始めましょうか?」
「えぇっと……また数学なんだけど」
数学は、俺の苦手科目だ。公式を覚えて、素直に使えばいいだけの問題ならなんとかなるが、応用問題になると頭がこんがらがってしまう。
それを素直に伝えると、黒羽さんは呆れたようにため息をついた。
「はぁ……苦手って思ってやってると、ますます苦手になるわよ? 難しいって思うから手が止まるの。逆に、こんなの簡単だって思うようにしてみなさいよ。そうしたら、全然違ってくるはずだから」
「いや、いきなり精神論? それでどうにかなるなら、みんなもっと勉強ができるようになってると思うんだけど……」
「そりゃ、人によって程度に差があるから一概には言えないのは事実よ。けどね、やる前から怖気付いてたら話にならないじゃない。なにがきても自分は平気だって思い込むことが大事──あっ……」
そこで、言葉が途切れた。
一瞬、空気が止まった気がした。
横に目を向けると、黒羽さんは俯き、肩を震わせていた。そして、その口から小さくブツブツと呟きが漏れ始める。
「そうよね……。平気だったはずじゃない。一人でも──なのに、こんなことして。やっぱり私は……」
ぎゅっと強く、自分の腕を掴んでいた。
「……黒羽さん?」
ほとんど聞き取れないような、か細い声。
それでも、俺には伝わってきた。
この一週間、俺の中に居座っていた疑問が、音を立てて溶けていくように。
先週の最後に、俺が感じたものは間違いじゃなかった。自分から「関わるな」と壁を作っておいて、矛盾してるとは思う。
けれど、そこになにか深い理由があるとしたら。
考えに考えた結果、俺は重たい口を開いた。
「ねぇ、黒羽さん。なにか、無理してない? 俺でよければ話くらい聞くけど」
「無理って、なによ……。あなたに私のなにがわかるの……?」
「そんなのわかんないよ。わからないから、こうして聞いてる」
俺にできることなんて、この程度だ。この俺が、全てを察するなんて器用な真似、できるわけがない。
でも、止められなかった。俺も一人で寂しい思いをしていたから。その寂しさを、少なからず埋めてくれたのは、今、目の前にいる黒羽さんだったから。
黒羽さんはなにも言わない。じっと痛みを耐えるように、黙り込んだままだった。
だから、俺はもう一度問う。
「ねぇ、教えてよ。なんであんなこと言って、みんなを遠ざけたの?」
「うるさい……黙ってよ」
「黙らないよ。黒羽さんが言ったんじゃないか。平気だって思い込めって。だから、黙らない。だって黒羽さん、辛そうなんだもん」
「うるさい……うるさいうるさいっ! もう私に構わないでよっ!」
黒羽さんの叫びが図書室に響いて消えていく。俺の胸に、怒りを残して。
「構うなって、最初に話しかけてきたのは黒羽さんだろっ! 近付いたり、突き放したり、いったいなにがしたかったんだよ! 本当は寂しくて、誰かと話したかったんじゃないのかよ! だったら──初めからそう言えよ!」
肺が引きつる。こんなに大声を出したのは、初めてかもしれない。けれど、だからこそ紛れもない俺の本心で──
いや、違う。
怒りを吐き出したせいか、急激に頭が冷えていく。
これじゃ、ただの八つ当たりだ。
自分ができもしないことを、あんな偉そうに。
あれは、黒羽さんと話したいと思っていながら、そうできなかった自分への怒りだった。突然突き放されて、それでもなかったことにしたくない俺の心の叫びだった。
なのに、黒羽さんのせいにして、自分の望みを押し付けてしまった。怒鳴りつけるような、大声まで出して。そんな後悔が、俺から言葉を奪う。
永遠とも思えるほど長く、重い沈黙。
やがて、椅子を跳ね飛ばす勢いで黒羽さんが立ち上がった。
「……私、帰る」
「えっ、図書委員の仕事は……?」
「そんなの知らないっ……!」
乱暴に鞄を掴み、ドアに向かって駆け出す黒羽さん。その姿が消える間際、微かに声が聞こえた。
「……ごめんなさい」
黒羽さんがいた机の上に、涙の跡が残っていたことに気が付いたのは、それからしばらく経ってからだった。




