第37話 父の眼差し、託された握手
栞がインターホンを鳴らしてしばらく待つと、パタパタとスリッパの音がして、玄関からひょこりと文乃さんが顔を出した。
「おかえりなさい、栞。それから、いらっしゃい、涼くん」
「ただいま、お母さん」
「あの、えっと……お邪魔、します」
ぺこりと頭を下げると、文乃さんは上品にくすりと笑う。視線は俺たちの繋がれた手に向けられているのに、文乃さんはなにも言わなかった。
「今日は突然呼び出したみたいになってごめんなさいね。それに……いつも栞が入り浸ってるみたいだけど、ご迷惑になってない?」
「それは、全然ですよ。母も喜んでますし……俺も、その──楽しい、ですから」
「そう……。それならよかったわ。さ、玄関先で立ち話もなんだし、おうち入りましょうか。主人も楽しみに待ってることだしね」
主人──
つまりは、栞のお父さんだ。
そしてどうやら、そのお父さんは俺に話があるらしい。
さすがに、娘にちょっかいを出すな、なんてことは言われないだろう。でも、そもそも初対面の大人というだけで、どうしても苦手意識を拭いきれない。
「ほら、涼。こっちだよ」
「う、うん……」
それでも、嬉しそうに手を引く栞には抗えず、俺はリビングへと通された。
そこには、ソファに座る男性が一人。俺と目が合うと、その人は一呼吸置いてから、ゆっくりと立ち上がる。
「やぁ。君が涼くんだね。栞の父の聡です。今日は来てくれてありがとう」
俺は一瞬、どう返せばいいのかわからず、言葉を失った。けれど、穏やかな話し声に、少しだけ緊張が解けていく。
「あ……こちらこそ、お招きいただきまして──」
「あぁいや、すまない。そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。一度涼くんに会ってみたくてね、それだけなんだ。にしても──聞いていた通り、みたいだね」
じっと、観察するような視線を向けられる。それを遮るように、栞が前に出た。
「ちょっとお父さん。あんまり涼のこと怖がらせたらダメだからね。さっきから緊張でガチガチなんだもん」
「いや栞?! そういうことは言わなくていいんだってっ!」
「だって、本当のことでしょー?」
「ははは……そんなつもりはなかったんだけどなぁ。まぁ、気を付けることにするよ」
栞にたしなめられて、聡さんが苦笑する。そこで、キッチンから文乃さんが栞を呼んだ。
「栞ー。ご飯の準備するから、お手伝いしてくれるー?」
「はーいっ、今行くよ。というわけで、涼は適当にくつろいでてね」
「……えっ?!」
今度は私がついてるからって……言ってなかったっけ?
けれど、俺はあっという間に聡さんと二人きりにされてしまった。
キッチンからは、栞と文乃さんの笑い声。リビングには、沈黙が流れた。
聡さんはキッチンに目を向け、ふっと表情を緩めると、俺に向き直った。
「さて──涼くん、少しだけ話をしようか」
無意識に、身体が跳ね上がった。
「あまり構えることはないよ。そんなに大した話じゃないんだ。ただ、君に伝えておきたいことがあってね」
「……は、はい」
促されてソファに腰を下ろすと、聡さんも隣に座る。そして、静かに口を開いた。
「まずは涼くん。栞と仲良くしてくれてありがとう」
「いえ……。俺の方こそ、栞さんには──」
「あはは。僕の前だからって、呼び方を変える必要はないんだよ。さっきは、栞、と呼び捨てにしていただろう?」
「それは……なんとなくそうした方がいいような気がして。でも、わかりました。俺も……栞には感謝してるんです。俺なんかと、一緒にいてくれたりして」
「……なるほど。俺なんか、ね」
聡さんはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「涼くんは、自分を低く見積もる癖があるみたいだね。もしかして、あまり自分に自信がないのかな?」
俺は、すぐに返事をすることができなかった。完全に、図星だったから。
「なんで……それを?」
「僕もいろんな人を見てきたから、なんとなくかな。まぁ、僕はそこをとやかく言うつもりはないよ。ただ、もう少し胸を張ってもいいとは思うけどね」
「……というと?」
「実はね、今日は涼くんにお礼が言いたくて、うちに招待したんだ」
「それは、さっきも言ってもらいましたけど……?」
「あぁ、それとは別で、だよ。最近ね……栞は、よく笑うようになったんだ」
キッチンの栞を見つめる聡さんの目は、とても優しかった。
「二年くらい前だったかな。最初におかしいって思ったのは。それからずっと、栞はなにも話してはくれなかったよ。きっと、僕らに心配をかけまいとしていたんだろうね。……なにかあったことくらい、わかってしまうのに」
聡さんの顔が、苦しそうに歪む。
「僕も妻も……無力だったよ。栞が苦しんでいることを知りながら、なにもしてやることができなかった」
深く息を吐き、一拍置いて聡さんは続ける。
「無理に聞き出すこともできずに、見ていることしかできなかったんだ。親として、恥ずかしい限りだけどね。でも、それがここ数ヶ月で変わり始めた。今じゃほら……あんなに自然に笑ってる。昔と同じように、ね」
栞の弾むような声は、俺の耳にも届いていた。文乃さんの手伝いをしながら、何を話しているのかまではわからないが。
「それはたぶん、涼くんのおかげなんだよ」
「……俺、の?」
「うん。栞は、妻に色々と君のことを話していたみたいでね。栞の笑顔が戻ってきたのは、涼くんの名前が話題にあがるようになってからなんだ。だから、僕らは涼くんにすごく感謝してる。僕らが数年かけてもできなかったことをしてくれた、涼くんに」
「そんな……俺は、なにもしてませんよ?」
そう言いつつも、胸の内で、ほんのわずかに誇らしさが膨らむ。
「なにか特別なことをした、というわけじゃないのかもね。栞にとってはきっと、ただ隣にいてくれた、それで十分だったんだよ」
「……あっ」
そうなの、かもしれない。
今日、栞と美紀さんが話している間、俺はずっと栞の隣にいた。手を握ってはいたけれど、それ以上のことはなにもしていない。
栞も、それだけでいいと言ってくれていた。
聡さんが言っていることはつまり、そういうことなのだろう。
「なにか心当たりでもあったかな?」
「……ありました」
「だったら、あまり自分で自分の価値を下げてはいけないよ。きっと、栞もそう思うはずだから。もちろん、僕もね」
「わかり、ました。すぐには無理かもしれないですけど、少しずつでも」
「うん。それでいい。なにも焦ることはないからね」
聡さんは身体ごと俺に向き直ると、小さく頭を下げた。
「涼くん、ありがとう。これからもあの子を──栞のことをよろしく頼むよ」
聡さんは、俺の前にそっと手を差し出した。恐る恐るその手を取ると、ぎゅっと、力強く握られる。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
聡さんと握手を交わしながら、俺は横目で栞を見る。栞も、微笑みを浮かべて俺を見ていた。
俺と聡さんが打ち解けられるのかを、見守るみたいに。
やっぱり、栞が好きだ。
その理由は、これまで曖昧だった。
それが今、ようやく少しだけ見えた気がした。




