第36話 やり直しの約束
栞はすっかり汗をかいたグラスからコーヒーを一口飲み、続ける。
「本当はね……全部許してあげたいって気持ちもどこかにあるの。でも、やっぱりすぐには無理かな。嫌われてなかったってわかって安心はできても、辛かった時間はなかったことにできないから」
「それは……当然だよ。私も、虫がいいこと言ったって、自覚あるし……」
「うん。だからね、チャンスをあげる。……なんて言うと、ちょっと偉そうかな」
「……チャン、ス?」
涙でにじんだ美紀さんの瞳が、大きく見開いた。
「うん。もしこないだみたいに、またどこかで偶然出会えることがあったら──その時はもう一回、一から、普通のお友達からやり直そ?」
「……いい、の? そんなんで栞は、あんなひどいことをした私を、許してくれるの……?」
「言っとくけど、偶然会えたら、だからね? 家まで押しかけてきたり、ストーカーまがいのことをしたらなしだよ?」
「しないよ、そんなこと! ……でも、どうして偶然、なの?」
「私もね、まだ完全には気持ちの整理がつかないの。だから、そのための猶予期間──ってところかな。今は、これが精一杯で……ごめんね」
「栞が謝ることなんて、なにもないよ! 悪いのは、全部私なんだから。可能性を残してくれただけで、十分すぎるくらいだよ。また栞に会える日まで……しっかり反省することにするね」
栞も、美紀さんも、同時に表情が緩んだ。お互いにしっかりと目を見て、頷き合う。
「じゃあ……これで話は終わり──でいい、のかな?」
「あ、待って。最後に、少しだけ」
「うん。どうしたの?」
「えっと……こないだ二人の邪魔しちゃったことも、謝っておきたくて。たぶん……デート、だったんだよね?」
「……えっ?!」
栞の顔が、ぽふんと赤く染まった。
「そんなに慌てなくてもいいのに。浴衣着て、気合入ってたもんね」
「あ、あれはっ……涼のお母さんが貸してくれただけで……」
「親公認なんだ? すごいなぁ。なら──」
美紀さんはすっと立ち上がり、真っ直ぐ俺を見て、深くはないけれど、はっきりと頭を下げた。
「高原さん」
「は、はい」
「私はこれで帰りますけど……栞のこと、お願いしますね。栞はしっかりしてるように見えて、寂しがり屋の甘えん坊ですから。誰かが見ていてくれたら、私も安心、というか……」
「ちょっと美紀っ?! やめてよっ! 私、そんなんじゃないもんっ!」
美紀さんに噛み付いた栞に、俺は苦笑をもらした。
……知ってるよ、それくらい。
栞は否定するけれど、美紀さんから言われるまでもない。俺もぺこりと会釈を返した。
「……はい。任せてください」
「涼までっ?!」
「ふふっ。栞ってば、照れちゃってかーわいっ」
「もうっ! やめないとさっきの話なしにしちゃうからっ!」
「やっ……! ごめんって。許して、栞ぃ……」
「っとに……調子いいんだから」
あぁ……。
やっぱり二人は親友同士だったんだな。
俺はこのやり取りに、かつての二人の姿を見たような気がした。
一度は壊れてしまったかもしれないけれど、これならたぶん、いつかまた──
「じゃあ……今度こそ、私行くね。またね、栞」
「……うん」
栞はわずかに間を置いてから、顔を上げた。どこか晴れやかで、すっきりとした顔を。
「またね、美紀」
この『またね』には、きっと俺にはわからない、たくさんの意味が込められているのだろう。
美紀さんはそれを最後に、さりげなく伝票を手に取って、去っていく。栞はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
その瞳が蛍光灯の光を反射して、揺れる。
もしかすると、二人が再会する日は近いのかもしれない。不思議と、俺はそう思った。
「まったくもうっ……美紀はっ!」
栞は唇を尖らせ、ズズズッと音を立ててコーヒーを飲み干した。
「涼も真に受けなくていいんだからねっ?」
「いや、でも……あながち間違ってないでしょ?」
視線が落ちる。そこには、固く握られた俺たちの手があった。
「……知らないっ」
栞はぷいっと顔を背けるのに、手だけは離さなかった。その姿が、たまらなく微笑ましい。
俺は栞の手を、そっと指先で撫でた。
「お疲れ様、栞。頑張ったね」
「……うん。私、頑張ったよ。でも……涼から見て、どうだったかな? あれで、よかったのかな?」
栞は今日初めて、はっきりと不安そうな顔を見せた。
その答えは、俺の中でもう決まっている。
「栞が悩んで、たくさん考えて出した答えなんでしょ? なら、それでいいんじゃないかな。俺は栞のこと、すごいって思ったよ」
「そう、かな?」
「そうだよ」
「……そっか」
栞は小さく息を吐いて、俺の肩に額を預けた。ゆっくりと、握る手の力が解けていく。最後はただ、重ねられているだけになった。
「じゃあ……私たちもそろそろ出る?」
「……そうだね。この後は、栞の家にお呼ばれしてることだし……?」
「ふふっ。緊張してるの?」
「そりゃするって。でも──まぁ、なんとかするよ」
栞は、すごく頑張った。
なら、今度は俺が頑張る番だ。
「よし、行こうか」
「えっ、あ……ちょっと待ってよぉ、涼っ!」
さっさと席を立つと、栞が慌てて追いかけてくる。店の外に出たところで、俺は栞に捕まった。
「もうっ、置いてかないでよぉ」
「ごめんごめん」
また、手を繋がれる。
俺が逃げないようにしているのかもしれない。
逃げるわけがないのに。
「あっ。お父さん、もう帰ってきてるって」
不意に、スマホを確認した栞が呟く。
覚悟を決めたはずなのに、胃がきゅっと縮み上がった。
「そ、そうなんだ……」
……栞のお父さんとの初対面。
悪印象を与えるわけには、いかないよなぁ。
いずれ、栞に告白しようとしている身としては。
「大丈夫だよ。今度は私がついてるから。ねっ?」
そう言うと、栞はぐんっと俺の手を引いて駆け出した。
「ちょっ……! そ、そんなに急がなくてもよくないっ?!」
「ダーメっ! こういうのは勢い任せの方がいいんだよーっ」
俺たちは、西に傾いた日差しの下、茜色に染まる道を駆けていく。手を繋いだ俺たちの影が、長く伸びる。
「ほらほら、涼っ。はーやーくっ。あははっ」
栞の家に着くまでずっと、楽しげな笑い声が夕方の住宅街に響いていた。




