第35話 裏切りの理由と、三本の指
「涼から聞いてるよ。美紀は……私に言いたいことがあるんだよね。最初に、それを聞かせてくれる?」
栞の纏う雰囲気が一変したような気がした。
怒っているわけじゃない。
顔には、薄く笑みが浮かんでいる。
なのに、声は平坦で抑揚がない。
肌がピリつくようで。
こんな栞を見るのは、初めてだった。
「そう、だね……。私、一言、栞に謝りたくて……。ごめん、なさい……」
美紀さんの声は震えていた。
横にいる俺がこれなのだから、正面から視線を向けられている美紀さんが栞のペースに呑まれてしまうのも無理はない。
逆に、栞は態度を崩さなかった。
「それは、なんに対しての謝罪なの? いきなり私の前に現れたこと? それとも、中学の時のこと?」
「……中学の時の。あの日、栞を傷付けたこと……」
「うん。傷付いたよ。苦しかったし、たくさん悩んだ。誰も信じられなくなって、一人ぼっちになって──寂しかった。でも、ね。私が聞きたかったのは、そういうことじゃないの」
栞は言葉を区切り、俯いて、小さく唇を噛んだ。
なにかを押し留めるように、息を止めて。
直後。
テーブルの下、ソファの上で、栞の手がそろりと伸びてきた。その手が震えていることに気が付いて、俺は反射的に自分の手を重ねた。
すると、あっさりと震えは止まる。ピリつく空気も霧散して、栞がふっと息をもらした。
「……私ね。あの時の言葉の理由が知りたいの。私のこと、嫌いだったの? なら、いつから? 私、知らないうちに美紀になにかしちゃってたかな? それとも、他に理由があった?」
この瞬間、俺は理解した。
栞が隣にいてほしいと言った理由を。
でも栞は、自分で自分の傷を開いた。
心の奥底に溜まった膿を吐き出した。
なら、もう本当に大丈夫だ。
きっと栞は、栞自身が納得できる答えに辿り着ける。
だから、俺はこの話し合いが終わるまで、なにがあっても栞の手を離さない。
それがたぶん、寄り添い、支えることだと思うから。
「……嫌いになんて、なってない。栞は……なにもしてないし、悪くないよ。全部……私の弱さが招いたことなの……」
嗚咽混じりの声。
美紀さんの目尻に、じわりと涙がにじんだ。
「どういうことか、わかるように教えてくれる?」
「栞のことは……ずっと変わらず、大切だったよ。親友だって、あのままいつまでも仲良しでいられるって思ってた。でも私ね……実は怖かったんだ。栞をいじめてたあのグループから、次の標的にされるんじゃないかって。素行の悪い先輩と付き合いがあるって噂もあったし……」
「じゃあ……私のことが、嫌いになったわけじゃなかったの?」
栞の問いに、返事はなかった。代わりに、ぎこちなく首が振られる。
「ねぇ……栞は、知ってた? あの人たちが、栞に直接危害を加えなかった理由」
「……ううん、知らない」
「じゃあ、教えてあげる。栞はさ……勉強もよくできたし、真面目だし、先生たちからの評価が高かったんだよね。それで、学校にバレた時に問題が大きくならないようにって──あの程度って言うのは変だけど、あれで済んでたんだよ」
「そう、だったの……?」
「まぁ……私も又聞きなんだけど。で……ここからが私の話」
美紀さんは覚悟を決めたみたいに、短くふぅと息を吐いた。
「私はさ、栞と違って平凡だから。そういう後ろ盾みたいなの、なんにもないから。私が狙われたら、なにされるかわからなくて……怖くて。あの日、栞を待ってる時にあの人たちに絡まれて、咄嗟に保険をかけようとしちゃった。栞に聞かれてるなんて、知らずに。私……本当、バカだよね」
自嘲気味に笑う美紀さんの顔は、見ていられないほどに痛々しかった。
「それなら……すぐに言ってくれれば」
「そうだよね、ごめん。でも……言えなかった。教室に入ってきた栞の顔見たら、取り返しのつかないことしちゃったんだって……そう思って」
「じゃあ……なんで今頃になって……?」
「ずっと……ずっと後悔してたの。栞に合わせる顔がないって、思ってた。二度と、栞と会っちゃいけないって。でも……あの時、栞の姿を見たら止められなくなっちゃった。自分から謝りに行く勇気もない私に……神様が、最後のチャンスをくれたのかも、なんて気がして」
考え込むように、栞は黙り込んだ。
また、栞の手が震え始めた。栞は表情を変えずに、手を裏返して俺の手をぎゅうっと痛いほど握りしめてくる。俺からも、握り返す。
栞がどんな決断を下しても、俺はそれを尊重するよ。
そんな思いを込めて。
やがて、栞は深く目を閉じ、大きく開いた。
その瞳はたぶん、過去じゃなく、未来を見ている。
「……美紀は、この話をして、私にどうしてほしいの?」
「別に、どうも。ただ一言、謝りたかっただけだから。それでも、許されないことをしたのはわかってる。わかってるけどっ──」
言葉を区切った美紀さんの瞳から、とめどなく涙が流れ出す。
「本当はっ……昔みたいに、戻りたいよ。自分勝手だって、わかってる。でも……今でも栞は、私の──なのに、自分で壊しちゃった……。栞の方がずっと辛いはずなのに、栞のことを思い出すだけで、後悔ばっかりで、辛くて……」
それ以上は、もう言葉になっていなかった。
栞が、横目で俺を見る。栞は、とても優しい目をしていた。そのまま美紀さんに向き直ると、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ……次は私の番だね。ひとまずは、美紀の謝罪を受け入れます」
「え……。いい、の……?」
「別に、許すとは言ってないよ。まだ、謝罪を受け入れるだけだから」
「あ……そっか。そうだよね」
「とりあえず、その理由なんだけど──まず一つ目」
栞はピッと、人差し指を立てた。
「私が、美紀の気持ちに気付いてあげられなかったから。あれだけ一緒にいたのに、美紀が怖がってたこと、全然知らなかった。できれば……あんなことになる前に話してほしかったけどね」
「……ごめん」
「ううん、いいよ。たぶん、私を不安にさせないようにって、黙ってたんでしょ?」
「なんで……わかるの?」
「わかるよ、それくらいは。長い付き合いだもん。今の話を聞いたら、なんとなくね。──じゃあ、二つ目の理由にいこうか」
二本目の指が立つ。
「あのことがあったおかげで、涼に出会えたから。涼はね、今の私の一番のお友達なの」
そう言って、栞は前を向いたまま、少しだけ強く俺の手を握った。
「……涼って」
美紀さん視線が、俺を向く。
「そういえば……名乗ってませんでしたね。高原、涼です」
俺が名乗ると、栞がにっこりと微笑んだ。そして、俺の方へかすかに身体を傾けた。
「涼がいるから、私は今ここにいる。こうして、美紀とも向き合えるの」
「……そっか。羨ましいね」
この言葉は、俺に対してのものなのか、栞に対してのものなのか。その表情からは、窺い知ることができなかった。
そしてさらに、栞の手に三本目の指が立った。
「それから、最後にもう一つ。美紀のおかげで、大切なものを失わずに済んだから」
そこで栞が、チラリと俺を見た。
「……詳細は、内緒だけど。ね?」
栞の指先が、俺の手をそっと撫でる。俺は思わず、勢いよく栞の方を向いた。
お礼は言わないって、そういう話になっていたはずなのに。
栞はどこか、いたずらっぽく笑っている。
その意味に気付いたのは、たぶん俺だけだった。




