第34話 逃げない覚悟と、開戦の宣言
俺と栞は、ついにその日を迎えた。
迎えたはずだ。
なのに、栞があまりにもけろりとしているせいで、実感がわいてこない。
緊張と心配で胃を痛めている俺とは真逆に、栞はいつも通りだった。いつも通りすぎた。
今日も昼過ぎにうちに来て、リビングで課題をこなして。それが終わると、俺の部屋に場所を移してのんびりタイム。
俺の肩にぴったりと身を寄せて、俺の蔵書を読み漁っている。
「あのさ、栞……。今日、だよね?」
「んー? なにが?」
気のない返事。栞は、俺の漫画のページをめくるのに夢中だった。
「……いや、なにがって」
「あっ! もしかして、私の誕生日? それならまだ先だよ。十月ニ七日だから、ちゃんと覚えといてね」
「誰が誕生日の話を──」
「ねぇ。涼はいつなの?」
「え、俺? 九月ニ七日だけど……」
「なら、ちょっとだけ涼の方がお兄さんだ。忘れないようにするね。ちゃんとお祝いしてあげるから」
「う、うん。ありがと──じゃなくって!」
お祝いしてくれるというのは、素直に嬉しい。家族以外に祝ってもらったことなんて、これまでなかったから。
でも、その話は今じゃない。
「……栞、わざとやってるでしょ?」
「えへっ、バレちゃった?」
「そりゃバレるよ! 無理ありすぎるって」
「だーって。涼が緊張してるみたいだから、少しリラックスさせてあげようかなぁって、ね」
「うっ……ごめん」
あぁ、情けないなぁ。
全部見透かされて、気を使わせて。
これじゃ、立場が逆なのに。
でも、栞はこてんと頭を預けてくる。
「いいよ。私のこと、心配してくれてるんでしょ? でもね、本当に大丈夫だから。涼は、ただ隣にいてくれるだけでいいの。それだけで、いいから」
「……わかったよ」
そもそも、俺にはそれくらいしかできない。あの場に居合わせたというだけで、元々は部外者なんだから。
栞は時計を見て、静かに俺から離れた。
「それじゃ──ちょっと早いけど、そろそろ行こっか。こっちが時間指定したのに、遅刻するわけにはいかないもんね」
さすがにもう、これ以上見苦しい真似はできなかった。俺は栞よりも一足先に立ち上がり、手を差し出す。
「だね。行こうか」
「うん」
ちょこんと乗せられた華奢な手をしっかりと握り、引き上げた。
さて、いよいよだ。
栞は、これから自分の古傷と向き合うことになる。たぶん、痛みを伴うだろう。でも、きっとこうするしかないんだ。
心に使える麻酔なんて、この世には存在しない。
だからせめて。
この機会を提案した張本人として。
友人として。
そしてなにより、栞のことが好きな男として。
少しでも痛みを和らげてあげたい。
それが、今の俺にできる唯一のことだから。
それでその後、ちゃんと傷が癒えたら。
その時ようやく、俺は──
今度こそ、栞に告白する。
***
家から一歩外に出ると、むわりとした空気に包まれた。まだ陽は高く、容赦なく俺たちを照り付けてくる。
約束のファミレスまでは、徒歩で向かう。俺と栞は、くっきりと落ちた黒い影を踏みながら、ゆっくりと歩いていく。
俺も栞も額に汗を滲ませ、お互いに手汗を気にするように、指先を引っかけるように手を繋いで。
ファミレスには、彼女──美紀さんよりも先に到着した。店員に後でもう一人来ることを告げ、ボックス席に案内してもらう。
栞は先にソファに腰掛けて、その隣をぽんぽんと叩く。通路側に座ろうとしないのは、まるで自ら逃げ場を塞いでいるように見えた。
あの花火大会の日、栞は美紀さんの顔を見て、一目散に逃げ出した。でも、今日は違うのだと、はっきりとわかる。
タブレットでドリンクバーを注文した俺たちは、一度席を立つ。さすがに店内では、手は繋がなかった。
「涼は、なに飲むの?」
「んー……。アイスコーヒーにしようかな」
「なら、私も同じのにしよーっと」
「好きなの選んだらいいのに」
「いいのっ。今はそういう気分なんだもん」
「俺はブラックだけど、それも同じにするの? 甘党って言ってたけど、苦いの平気?」
「……涼の意地悪っ」
「ごめんって。ほら、ガムシロとミルク。二個ずつくらいでいい?」
小さな手の平に四つのポーションを乗せると、栞は唇を尖らせてぷいっとそっぽを向いた。
「……ばかっ。でも、ありがと」
「ん。じゃあ、戻ろ────あ」
視界の端、店の入り口付近に、見覚えのある姿が映り込んだ。無意識に、スマホで時計を確認する。時間は、ほぼぴったりだった。
「涼? どうした────あっ。美紀……来たんだ」
どうやら栞も気が付いたらしい。息を呑む音が聞こえてきた。
「そう……みたいだね。俺、ちょっと連れてくるよ。栞は先に戻っててくれる?」
「うん……ありがと」
栞の背中を見送り、俺はグラスを片手に美紀さんに歩み寄る。向こうも俺の顔を覚えていたようで、ぴくっとかすかに肩を震わせた。
「……すみません。お待たせして、しまいましたか?」
「いえ、さっき来たばっかりですよ。栞は席にいますから、行きましょうか」
「……はい。お願いします」
彼女は深呼吸をしてから、俺のあとに続く。栞は、ガムシロとミルクを入れたグラスを、カラカラとストローでかき混ぜながら待っていた。
その手が、一瞬だけ止まる。
「……いらっしゃい、美紀。久しぶり……だね?」
「うん……。あの、栞……ごめ──」
「待って」
立ったまま頭を下げかけた美紀さんを、栞が手で制した。
「まずは座ってよ。美紀も、暑い中歩いてきたんでしょ? 話をする前に、一息ついたほうがいいよ。それから、涼にお願いがあるんだけど」
「うん、なんでも言ってよ」
「美紀にも飲み物、取ってきてあげてくれる?」
栞はまた、手早くタブレットを操作して、ドリンクバーをもう一つ追加した。
俺が今、この場を離れていいものか、一瞬だけ迷った。けれど、じっと見つめてくる栞の瞳に、俺は頷きを返した。
「……了解。じゃあ、行ってくるよ。なにがいいです?」
「え……そんな、悪いですよ。それくらい自分で──」
「いいから。美紀はここにいて」
栞の言葉は柔らかいのに、どこか有無を言わせぬ圧がある。この場はたぶん、栞が主導権を握っていた。
「美紀は……コーラかな。確か、好きだったよね?」
「え……。うん、まぁ……」
「なら、コーラ取ってきますね」
俺が離れようとした、その瞬間。
「涼」
呼び止められて振り返ると、栞の顔に微笑みが浮かぶ。でも、それ以上はなにも言わない。
俺は、自然と急ぎ足になった。
なんとなく、栞がそうしてほしそうな気がしたから。
コーラの注がれたグラスを手に席に戻ると、二人は向かい合って座っていた。
栞は両手でグラスを持ち、チビチビとコーヒーで喉を潤している。一方の美紀さんは、所在なげに俯いていた。
俺は美紀さんの前にグラスを置き、栞の隣に腰を下ろした。
「……ありがとう、ございます」
「いえ。俺は栞に頼まれたことをしただけですから」
美紀さんがこくりと一口コーラを飲むのを見届けて、栞はグラスをテーブルに置いた。
「……さて。早速本題に──と言いたいところなんだけど。その前に……一つだけ、聞いてもいい?」
「う、うん……なに?」
「あの花火の日。なんであの場所にいたの? 偶然? それとも……」
「違っ……! あの日は、クラスの子に誘われて……別に乗り気じゃないのに参加して。でも、すぐ皆とはぐれちゃって……。そんな時に、栞を見つけたの」
「ってことは、偶然、だったんだね。……そっか」
この質問の意図は、俺にもわからない。栞はあれから、俺の前でこの話をほとんどしなかったから。
でも、きっとなにか意味があるのだろう。
栞は目を閉じて小さく息を吐き、それから真っ直ぐに美紀さんを見据える。
数秒の沈黙の後、
「じゃあ……お話、しようか」
静かに、厳かに、栞が宣言した。




