第33話 掴まれた胃袋と、残り香の罠
母さんと栞の、楽しそうな声がリビングまで届く。
それだけじゃなくて。
トントンと、包丁がまな板を叩く軽快なリズム。
なにかを炒めている音、煮込んでいる音。
そしてしだいに、美味しそうな匂いが漂い始めた。
俺はずっと、栞を視界の中央に置いていた。栞は、全然こっちを見てくれない。
なんとなく疎外感を抱き始めた──その時。
パチリと目が合った。栞はふっと微笑んで、こてんと小首を傾げる。
「──ん? どしたの、涼。ずっと見てるね。お腹すいちゃった?」
「いや、それはまだ平気だけど……」
栞は作業の手を止めて、とことこと俺の目の前にやってくる。
「じゃあ、なに? もしかして──寂しくなっちゃった?」
「っ!」
栞は少しだけ身を屈めて、じっと見下ろしてくる。
「その反応は正解だったのかな?」
まただ。
また、さっきみたいに。
からかうような、冗談みたいな声。なのに、瞳の奥がどこか真剣そうで。
「……そんなんじゃ、ないけど?」
「嘘。涼、ちょっと拗ねた顔してるもん──別に正直に言ってもいいのに」
栞はそう言ってから、くすっと笑って視線を逸らした。まるで、本気じゃなかったみたいに。
「……」
俺は黙り込んだ。
もし、寂しいって言ったら──
構って、くれたのかな?
横にいて、母さんじゃなくて、俺にだけ笑いかけてくれたのかな?
じゃあ、なんて言えば……。
言葉を探して、見つけあぐねているうちに、栞の方が先に動いた。
栞の手が、わしゃりと俺の髪を乱す。
心も、一緒に。
「でも、ごめんね。まだ仕上げが残ってるから、もうちょっとだけ待っててくれる?」
「……うん、わかった」
「ん、いい子」
栞は最後に、乱れを整えるように俺の頭を一撫でして、パタパタとキッチンに戻っていった。
子供扱いされて。
頭まで撫でてもらって。
情けなくて。
でも。
……もっと、してほしかった、かも。
なんて思ってしまう。
こういうのも、毒されてるって言うんだろうか。
もうちょっとだけ、という栞の言葉の通り、それからものの数分でダイニングテーブルに料理が並べられていく。それもすぐに終わり、栞がエプロンを外しながら俺を呼んだ。
「お待たせ、涼。ご飯できたよ」
「涼もこっちにいらっしゃい。ちょっと早いけど、食事にしましょ」
「ん、わかった」
ソファから立ち上がり、ダイニングへ。テーブルの上を見た俺は、思わず声を上げた。
「うわ、すごっ! 俺の好きなのばっか……。え、今日ってなんかの日だったっけ?」
「えへへ。初めて涼にお料理を作った日、かな? 水希さんにね、涼の好きなもの教えてもらってたの」
「すごいでしょ。これ全部、栞ちゃんが一人で作ったのよ。私は口出ししただけ」
「……まじか」
栞が作ったという料理は、普段母さんが作るものと遜色ない。むしろ、より丁寧に盛り付けされているように見える。そのあたり、母さんは大雑把だから。
メニューは麻婆豆腐に揚げだし豆腐、和風ハンバーグとサラダ、そして、豆腐とわかめの味噌汁。いつもより、品数が多い。
「それにしても──」
そう言いながら、栞がくすっと笑う。
「涼の好きな食べ物って、お豆腐だったんだね。男の子だし、お肉とかかなって思ってたよ」
「え……。変、かな?」
豆腐といえば、メインにも脇役にもなれる優れものだ。便利で美味い。文句のつけようのない食材だと、俺は思っている。
「ううん、そんなことないよ。ちょっと意外だっただけで──なんとなく、涼らしいかなとも思うよ」
好みを知られただけ。
なのに少しだけ恥ずかしくて、それ以上に嬉しい。
でも、それを口にしたら──
また、撫でられるような気がする。
「そういう栞の好きなものって、なに?」
照れ隠しに問い返すと、栞はキョトンとして、顎に手を当てた。
「私? うーん……そうだねぇ。ご飯っぽいものじゃないけど、甘いもの全般かなぁ? 私ね、結構甘党なの。でも、食べ過ぎるとすぐに太るし、困っちゃうよね」
「とか言って、栞は全然太ってないじゃん」
あまり身体をじろじろ見るのは不躾だろうが、栞は理想的な体型だと思う。太ってもなく、痩せてもなく、それでいて──
女性らしい、というか……。
「そりゃね。これでも一応気を付けてますから」
栞が胸を張り、つい目を奪われかけて、慌てて逸らした。
でも、そういうところは真面目な栞らしい。甘いもの好きっていうのは、いかにも女の子って感じで可愛いけど。
「ちなみに私は──」
「母さんには聞いてないって」
母さんが会話に混ざろうとしたところを、俺はばっさり切り捨てた。どうせ、酒のアテになりそうなものとか言うんだ、この母親は。
「あら冷たい。お母さん寂しいわぁ──ま、別にいいけどね。とにかく、冷めないうちに食べましょ。せっかく栞ちゃんが腕を振るってくれたんだから」
「水希さんに言われた通りに作っただけですけどね」
「謙遜することないのに。これだけできれば十分すぎるわよ。栞ちゃんはきっといいお嫁さんになるわね」
「……お嫁、さん」
栞がちらりと、俺を見たような気がした。俺はもう、栞と目を合わせられない。
「……母さん。今はそういうのもセクハラになるけど?」
「なによぉ、褒めただけじゃない。ねぇ、栞ちゃん?」
「へっ……? えっと……そう、ですね?」
「ほらねっ──じゃなくって、いいからもう座りなさいよ。これじゃいつまで経っても食べられないじゃない。栞ちゃんはそこで、涼はその隣ね」
「いや、俺の席……そっちなんだけど?」
「いいからっ」
「……わかったよ」
ようやく、三人揃って席に着く。
俺は父さんの席に。
栞は母さんの席に。
そして母さんはその向かい側の俺の席に。
母さんの言った、「お嫁さん」という言葉を、つい意識してしまう。栞も、ほんのりと頬を赤くしていた。
手を合わせる直前、栞がそっと、俺の服を引く。
「あのね、涼……。もし美味しくなかったら、そう言ってね。そしたら、次はもっと頑張るから」
「この見た目で美味しくないわけが──でもまぁ、とりあえずは食べてみてから、かな」
「……そ、そうだね。じゃあ──」
「うん……。いただきます」
箸を持ち上げた手が、かすかに震える。
これは、栞の手料理だ。俺の好きな女の子が作ってくれたものだ。緊張しないわけがない。
慎重に箸を操り、まずはハンバーグを割る。ふっくらと焼き上げられた上に、出汁の香る和風餡がかけられていた。
ばくりと口に運んだ俺は、思わず目を見開いた。
「うっまっ……!」
ふわふわな食感。これにも豆腐が使われているとすぐにわかった。じわりと染み出る鶏ひき肉の旨味が餡と絡まり、口の中に広がった。
その瞬間、栞が安心するようにほっと息を吐いた。俺が食べるところを、ずっと見ていたらしい。
「……良かったぁ。実はね、これ、昨日のお礼のつもりだったの。だから、美味しくなかったらどうしよ……って不安でね」
「いや、めちゃくちゃ美味しいってこれ。というか……お礼なら、言ってもらってたのに」
「だって……それだけじゃ気が済まなかったんだもん。ちゃんとね、形のあるものでって思って。はぁ……なんか安心したら気が抜けちゃった」
「よかったわね、栞ちゃん」
「……はいっ!」
ようやく、栞も箸を手にした。俺と同じようにハンバーグを口に運び、ふにゃりと微笑む。
「うん……ちゃんとできてる」
「俺、嘘なんて言わないよ?」
「それはわかってるけどね。えへへ、嬉しいな」
そんな顔をされたら、もっと見たくなる。
俺はしっかりと幸せを噛み締めつつも、次々に箸を伸ばす。どれもこれも絶品で、「美味しい」を連発すると、栞の頬がぴくぴくと動いた。まるで、緩んでしまうのを我慢するように。
「……もう、褒めすぎだよぉ。そんなに言われたら、調子に乗っちゃうよ? また、作っちゃうよ?」
「今度は……なんのお礼?」
「お礼じゃないと、食べてくれないの……?」
じっと、見つめられる。
俺を試すような、そんな目で。
胸の奥がくすぐられる。
期待ばかりが大きくなっていく。
「──なんて。涼にはお礼したいこと、たくさんあるから。この程度じゃ、全然足りないの。だからね、もし次があったら、その時もちゃんと受け取ってね?」
「……うん」
なんだか今日は、栞に振り回されっぱなしな気がする。あんなふうに言われたら、頷くしかないのに。
もちろん、悪い気はしない。
でも、心配にはなる。
これがもし、不安の裏返しだったらって。
そのもやもやした気持ちをぶつけられないまま、食事の時間は終わり、栞の帰る時間がきた。
母さんをリビングに残し、二人で玄関へ。栞はさりげなく、俺の手を取った。
すぐに、心臓が騒ぎ出す。
同時に、心は安らぐ。
俺は確かめるように、栞の手を握り返した。
「じゃあ……また明日ね」
「家まで送ってくよ?」
「ううん、大丈夫。まだ昨日ほどは遅くないから。それにね、今日は一人で帰りたい気分なの」
「え……なんで?」
「ふふっ。なーいしょっ」
栞は唇の前に人差し指を立ててはにかみ、くるりと背を向けた。そして、逃げるように出ていく。
……なに、今の顔。
可愛いどころじゃないんだけど。
栞に胸を射抜かれた俺は、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「はぁ……。やばいよなぁ、俺」
例の日は、着々と近付いてくる。
俺がこんなんじゃいけないのに。隣りにいてほしいと言ってくれた栞を、支えないといけないのに。
そして、深夜。
ベッドに潜り込んだ俺は、身体を固くした。無意識に、枕に顔を埋めて息を吸い込む。
……栞の、匂いがする。
午前中、栞が横になっていたベッドには、しっかりと残り香が染み込んでいた。
とっくに家に帰ったはずの栞が、まだここにいるみたいに。おかげで、俺はなかなか寝付けない夜を過ごすことになった。




