第32話 目覚めの距離と、小悪魔な囁き
俺のものじゃない息遣い。
時折聞こえる、衣擦れの音。
すぐ近くに、誰かいる。
その気配で意識が眠りから浮上する。
ゆっくりと瞼を開けると──
目と鼻の先に、俺の好きな女の子の顔があった。
「──あっ。やっと起きた」
栞がくすりと笑う。
その吐息が、俺の頬を撫でた。
「……栞? なに、してるの?」
栞の顔が、ものすごく近い。
鼻先が触れ合いそうなくらい。
いや。
ほんの少し動けば、唇が触れてしまう距離。
栞はわずかに顔を引き、また笑う。
開いた距離がなんだか名残惜しくて、でもその分、栞の顔がはっきりと見えるようになった。
くりんとした大きな瞳が、俺だけを映している。瞬きもせず、逸らしもせず、逃げ場を塞ぐようにじっと見つめてくる。
俺の目にも、栞しか映らない。
まるで、まだ眠っているような、夢の中にいるような気分になる。
「涼、すごくよく寝てたから──なにしたら起きるかなぁって、試してたの」
「……なに、その遊び」
「だって、全然涼が起きてくれなくて暇だったんだもん。なら、これくらいしかやることないでしょ?」
「いや……それはごめんだけどさ」
「ううん、いいの。寝てる涼……すっごく可愛かったから。私も寝顔見られちゃったし、これでお相子だよね?」
さっきの距離感よりも、この言葉の方が危険だった。眠気なんて、全て吹き飛ばされてしまった。代わりに、ドキドキと心臓が暴れ出す。
「……俺の寝顔に可愛いはないでしょ。それを言うなら、栞の寝顔の方が──」
言いかけて、言葉に詰まる。
待て待て……。
なに口走ろうとしてんだよ。
そんな俺の心の内を見透かすように、栞は口元を緩めた。
「……可愛かった?」
「うっ……!」
「触れたくなったり、しちゃったかな? それとも──」
栞の手が、そっと俺の目を塞ぐ。
そして、耳に息がかかる。
「私ね……あのままどんどん近付いても涼が起きなかったら──どうしよっかな、とか考えちゃった」
「……はっ? えっ?」
ぱっと、光が戻る。
一瞬だけ目が眩んだ隙に、栞は俺から離れ、背を向けて立ち上がっていた。
「……なーんて、ね?」
無意識に、俺は栞の手を掴んでいた。
今の言葉の真偽を確かめたかった。
なのに、すぐ手を握り返される。栞は髪の隙間から覗く耳まで真っ赤にして、俺を見ない。
「水希さん。涼、起きましたよ」
「やっと? おはよう、寝坊助さん」
栞の視線の先には、ニヤケ顔の母さんがいた。
急激に、血の気が引いていく。
母さんの前で……俺はいったいなにを?
「ほら、起きたなら顔洗ってきて。よだれ、垂れてるよ」
ようやく俺の方を向いた栞は、もうすっかりいつも通りの顔に戻っていた。
「え……マジで?」
「うん、マジだよ」
「……そ、そういうことは最初に言ってよっ!」
慌てて洗面所に向かおうとすると、きゅっと、手を握られる。振り返ると、栞はにっこりと微笑む。
「……いってらっしゃい。早く、戻ってきてね?」
ただ顔を洗いに行くだけなのに。
別に、外に出かけるわけでもないのに。
視線が、絡む。
俺の後ろ髪を引くみたいに。
「うん……。いって、きます」
俺はもう、こう返事をするしかなかった。
洗面所に駆け込んで鏡を見ると、口の端にしっかりとよだれの跡が付いている。
「うっわ……はっず!」
冷水を叩きつけるようにして顔を洗うと、頭も少しずつ冷えていった。
脳裏には、さっきの栞が焼き付いている。
なんか……これまでの栞とは、違ったような?
顔も、声も、栞には違いない。
なにがどうとは、はっきり言えないけど。
もしかして、弄ばれた?
いや、でも……栞がそんなことするはずないし。
なら。
明後日のことを考えすぎて、変になってる……とか?
「あーっ! わっかんない……!」
あんなの、もっと意識しちゃうに決まってるのに。栞が大丈夫になるまで待つって、決めてるのに。
でも、目元に触れた栞の手──
ひんやりしてて、気持ちよかったな……。
……って、だからダメなんだって!
「……はぁ、つら」
俺はため息をついて、顔の水気をタオルで拭き取った。
俺が戻ると、栞はキッチンにいた。母さんと一緒に、母さんのエプロンを装備して。
「おかえり、涼。ねぇ、見て見て」
栞がその場でくるりと一回転すると、エプロンの裾がふわりと舞った。
「えーっと、その格好は……?」
「もうっ、忘れちゃったの? 水希さんと二人で、お夕飯作るんだよっ! そういう話だったでしょ?」
「そういえば……そうだったかも?」
「だからね、水希さんにエプロン貸してもらったの。それで……どうかな。似合ってる?」
俺の服の胸元をちょんと摘み、上目遣い。
あざとい。
可愛すぎる。
もう顔しか見えない。
いや、待てよ。
改めて栞の全身に目を向けると──
なんだろう、この新妻感。
俺、栞と結婚したっけ?
……そんなまさかね。
告白だってまだなのに。
じゃあ──
もしかして、俺、まだ寝てる?
これは、夢か?
「……い"っ!」
思わず手の甲を抓ると、しっかり痛い。顔を歪めた俺に、栞は不思議そうに首を傾げた。
「涼? どしたの?」
「いや……なんでもないよ」
ということは……やっぱり明後日のことを気にして、無理をしてるのかな。
そう思うと、栞がすごく健気に見えてくる。
寄り添うんだった……よな。
俺は栞の肩に、そっと手を置いた。
「えっと……。すごく似合ってるよ。栞は、なんでも似合うね」
「本当っ?! えへ……嬉しっ」
ぱぁっと、栞の表情が明るくなった。そして、両手でぎゅっと俺の手を包み込んだ。
「じゃあ、頑張ってご飯作るから、楽しみにしてて! 水希さん、お願いしますねっ」
「はいはーい。というわけで──涼はちょっと向こう行ってなさい」
「また除け者?!」
「だって、涼がいてもなにもできないじゃない。ほら、邪魔になるから行った行った」
「事実だけどひどくない?!」
「ごめんね、涼。でも、いい子で待っててくれるかな?」
「う、うん……」
「よしよし、偉いね」
栞がくすくすと笑う。ちょっとだけ背伸びをして、頭まで撫でてくる。子供に言い聞かせるようなその笑みには、なぜか逆らえなかった。
俺は母さんに背中を押され、あっという間にキッチンから追い出された。
リビングに退避した俺は、カウンター越しにキッチンの栞を見やる。
昼からずっと、栞を母さんに取られているような気がして、正直面白くない。母さんなんかに嫉妬しても、仕方ないとわかっていても。
でも。
……楽しそうだな、栞。
栞の顔に、曇りは見えない。
それだけで、なぜか俺は満足してしまった。




