第30話 冷やし中華と、埋まる外堀
昼食は、冷やし中華だった。ダイニングテーブルの上に、三人分が並んでいる。
そういえば……俺、朝食べ損ねたんだっけ。
途端に、身体が空腹を訴えてくる。栞の寝顔を眺めている間は、全く気にならなかったのに。
その栞は、まだ眠たいのかどこかすっきりしない顔で俺の隣に立っていた。
「ほら二人とも、突っ立ってないで座って座って」
「えっと、あの……私もご馳走になっちゃっていいんですか?」
「いいのよ。もう作っちゃったし、むしろ食べてもらわないと困っちゃうもの」
「そうだよ栞。母さんもこう言ってるし、一緒に食べようよ」
「そういうことなら……。水希さん、すみません。ありがたくいただきますね」
栞が少しだけ申し訳なさそうに頭を下げると、母さんの顔がふっと緩む。
「栞ちゃんはいい子ね。大したものじゃないけど、遠慮せずにどうぞ」
「……はい」
栞と母さんと俺。
三人で囲む食卓。
例年の夏休みなら、母さんと二人が多かったこの時間。
そこに、栞がいる。
日常の風景の中に栞がいることが、とても特別なものに感じる。
でも、
「ところで、父さんは?」
本来ならいるはずの、父さんの姿がない。母さんに問うと、ため息が返ってきた。
「はぁ……。今頃いないことに気付いたの? とっくに仕事に行ったわよ。あんたが起きてくるよりも前にね」
「あれ、そうなの? でも、今日って日曜じゃ」
「お盆休みが近いからね。それまでに終わらせないといけない仕事があるんですって。というか、昨日もそうだったじゃない」
「……そうだったっけ?」
気のない返事をしながら、俺は思う。
……逃げたな。
父さんも、栞がうちに来ていることは知っているはずだ。母さんが嬉しそうにあれこれ話していたから。
そして、父さんもわりと人見知りをするタイプ。たぶん、栞と鉢合わせるのが気まずかったのだろう。
きっと、俺のこのコミュ障っぷりは父さんの遺伝だ。
「……そういえば、私、一回も涼のお父さんに会ったことないね」
「まぁ……そのうち会う機会もあるでしょ」
ひとまず、栞にはそう言ってお茶を濁しておいた。
「じゃあ、その時はちゃんとご挨拶しなくっちゃ」
栞がやけに真剣な表情で言う。
母さんはともかく、父さんにまで挨拶って──
それって、そういう意味、なのかな?
栞はそのへんのこと、どう思ってるんだろ?
なんて、直接聞けるわけもなく、俺は無言で麺をすすった。
やがて、全ての皿が空になると、母さんはそれを下げて、代わりにお茶の注がれたグラスを運んでくる。なぜか、妙に俺に目配せをしながら。
「今思い出したんだけど、お父さん、今日は帰りが遅くなるらしいのよねぇ。そこで栞ちゃんに相談なんだけど」
「なんですか?」
「もし良かったら、お夕飯も食べていかない?」
「えっ……それは悪いですよ!」
「そこはほら、お料理を手伝ってくれると嬉しいかなって。それに涼と二人じゃ味気ないのよねぇ。そこに栞ちゃんがいてくれたら、空気が華やぐでしょう?」
「……そんなこと、ないと思いますけど」
「まぁ、無理にとは言わないけどね。おうちの許可も必要だと思うし」
母さんは栞と話しているというのに、ちらちらと何度も俺に視線を投げてくる。まるで、「あんたのためにやってんのよ」とでも言うように。
まったく、余計なことを。
とは言えない。
逆に、感謝しないといけないかもしれない。
もちろん、口には出さないが。
しばらくおろおろしていた栞は、不意に俺の服をきゅっと摘み、不安そうな顔で見上げてくる。
「涼は、どう思う? 私がいて、迷惑じゃ……ない?」
「迷惑なんて、あるわけないよ」
俺は即答した。
考えるよりも前に。
「いつも栞が帰ったあとは寂しいからさ……。少しでも長くいてくれるのは嬉しい、っていうか……」
母さんの前でなにを口走っているのかと恥ずかしくなるが、これが紛れもない俺の本心だった。
栞の瞳が、かすかに見開く。真っ直ぐに俺を見つめ、少しだけ頬を赤く染めた。
「涼が……そう言ってくれるなら。私、ちょっとお母さんに確認してきますね」
そう言って、栞はスマホを胸に抱えて廊下に出ていった。
栞のいなくなったダイニング。母さんは、俺を見てニヤリと笑った。
「涼もなかなか言うじゃない。なんか最近すっかり見違えちゃって」
「……うるさい。ほっとけよ」
「あら怖い。はいはい、わかったわよ」
栞は、すぐに戻ってきた。さっきよりも、どことなく嬉しそうな顔で。
「お母さん、いいって言ってくれました」
「それは良かったわね」
「でも……条件があって」
「条件って?」
「あのね……今日、私がご馳走になる代わりに、今度、涼を連れてきなさいって。具体的には、明後日の夜、なんだけど……」
「明後日って……!」
思わず、俺は声を大きくした。
明後日は、例の日だ。
過去のトラウマと向き合う、という。
「あら、いいじゃない。行ってきなさいよ、涼」
事情を知らない母さんは気楽に言うが、俺は気が気じゃなかった。
「あの……栞? 明後日って、栞は大丈夫なの?」
「えっ、うん。なんかね、お父さんが涼に会いたがってるみたいで。明後日は、早く帰れそうだからって。……どうかなぁ?」
あれ……?
俺の方が大丈夫じゃなくなってきたかも。
栞がうちの父さんに挨拶する前に、俺が栞のお父さんに挨拶することになるかもしれなくて。
緊張で、胃がキリキリする。
けれど、不安そうに返事を待つ栞の顔を見ると、絶対に首を横に振るわけにはいかなかった。
「……わかったよ。じゃあ、お邪魔させてもらうね」
「本当っ?! よかったぁ……」
たぶん、これでいいんだ。
栞は、逃げなかった。
なら、俺も逃げてられない。
自分に言い聞かせる。
胃の痛みは消えないが、覚悟だけはできた気がした。
「なら決まりねっ!」
母さんがパチリと手を打つ。そして立ち上がり、栞の両肩に手を置いた。
「じゃあ栞ちゃん、お買い物行きましょうか。私と、二人で」
「……え、俺は?」
「留守番に決まってるじゃない。女同士の話に首突っ込む男は嫌われるわよ」
「……むっ。またそういうことを」
「嫌いになんてならないからっ! ねっ、安心して?」
「……うん」
母さんに詰め寄ろうとしたところを栞に止められて、なんとも情けない気持ちになる。なのに、栞の言葉で心が潤う気もする。
「でも……なんで私と二人でなんですか?」
「言ったじゃない、女同士で話がしたいだけよ。涼がいると、話せないこともあるでしょ?」
「……たとえば?」
「涼の小さい頃の話、なんてのはどう?」
「おいっ、やめ──」
「聞きたいですっ!」
「……えぇ」
そんな話を聞いて、どうしようっていうんだ。
必死で止めようとするも、栞は俺の手をかわしてうきうきと立ち上がる。
「そういうわけだから──ごめんね、涼。ちょっと行ってくるね」
「しっかり留守番してるのよー」
あっという間に、栞と母さんは家を出ていった。呆然とする、俺を残して。
もうどうすることもできなくて、俺はリビングのソファに身を投げだした。
母さん……
まじで変なことは言ってくれるなよ。
なんて願いが届くはずないことは、俺がよく知っている。
俺は観念して、目を閉じた。
栞が、俺の恥ずかしエピソードを知って帰ってくるかと思うと、のたうち回りたくなる。
まぁでも──
栞が母さんと仲良くなるのはきっと……悪くないこと、なんだろうな。
その後、満腹になった俺が睡魔に襲われるのには、そう時間はかからなかった。




