第29話 天使の寝顔と、迷う指先
「はい、乾いたよ」
そんな言葉と共に、くしゃりと頭を撫でられる。それが嬉しくもあり、もう終わってしまったことが名残惜しくもある。
「うん、ありがと」
肩越しにドライヤーを受け取り、立ち上がりながら栞の顔に視線を落とす。なぜだか今日は、どこかあどけなく映った。
こてんと小首を傾げて見上げてくる顔。
ほんのりと潤みを帯びた瞳。
そして、なんとなくいつもより重そうな瞼。
「……もしかして栞、昨日はあんまり寝れてない?」
「そ、そんなことないよっ? ちゃんと、寝れたもんっ!」
栞はわたわたと、両手を振り回す。その姿を見て、確信した。
そうなるかもとは思っていたけど──
やっぱり。
昨日の別れ際、気丈に振る舞っていた栞。
でも、それは俺を安心させるためだったのかもしれない。
夜、一人ベッドの中で泣いていた栞を想像すると、胸がツキンと痛んだ。
「無理することないって」
言いながら、ぽん、と栞の頭に手を置く。さっきのお返しにさらりと撫でると、ようやく大人しくなった。
「……はぅ。それは卑怯だよぉ。そんなことされたら、私……」
栞の指が、きゅっと、俺の服の裾を摘んだ。そんな姿すら、今はか弱く見える。
「卑怯でもなんでもいいよ。今日は課題休みにして、ゆっくりしよ。これまで毎日頑張ってきたし、遅れてるわけじゃないんだからさ。ね?」
「……でも」
「それにさ、二人だけで話したいこともあるし──俺の部屋、行こうよ」
「もう、わかったよぉ」
ちょっとだけ拗ねたような顔。手を差し出すと、おずおずと掴まれた。
「ほら、こっち」
「……うん」
俺は栞の手を引いて、リビングを後にした。母さんは、最後までなにも言わなかった。
蒸し暑い廊下と階段を通り抜けて、俺の部屋へ。
「栞、ここ座って」
「ん」
栞がこくりと頷き、ベッドのスプリングが、ギシッと音を立てた。俺も、栞の隣に静かに腰を下ろす。
手は繋いだままだった。
栞は感触を確かめるように、俺の手をにぎにぎと弄ぶ。それから、くたっと身体を預けてきた。
「とりあえず……眠いなら、ちょっと横になる?」
「……いいの?」
「俺のベッドでよければ、だけどね」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかなぁ」
栞はもそもそとベッドの中央に移動して、ぽふっとうつ伏せた。俺の枕を抱きしめるように、顔を埋めて。
「……んふっ」
隙間から、栞の吐息が漏れた。
エアコンの風が、カーテンを揺らす。
窓の外から、蝉の声がやけにはっきり聞こえた。
栞は落ち着けるポジションを探るように、ころころと何度も寝返りを打つ。そして最終的に、身体を丸めた横向きの体勢で俺を見上げた。
「涼のベッド……寝心地、いいかも」
「そうかな? そんなの、全く気にしたことなかったけど」
「そうだよ。だって、このまますぐに眠れちゃいそうだもん」
「それは昨日寝れてないからでしょ……。でも、まだ寝ちゃダメだよ」
「……なんでぇ?」
甘えるような声に、一瞬、覚悟が乱れる。
しばしばと瞬く瞳に、心を奪われかける。
けれど、俺は栞の手を握り直して、はっきりと告げた。
「話があるって言ったでしょ。昨日のあれ、決まったから。明後日の午後四時、ファミレスで。俺も同席していいって」
「もう、話し付けてくれたんだ?」
「こういうのは、早い方がいいかと思って。……栞は、大丈夫そう?」
「涼がいてくれるなら、平気。私……頑張れるよ」
栞はかすかに震える声でそう言うと、そっと目を閉じた。
「ねぇ、涼」
「なに?」
「もう……いい? ちょっとだけ、寝ちゃっても。本当、眠たくって……」
あくび混じりに栞が言う。その目尻に、小さな雫がにじんだ。
「うん、いいよ」
「なら……さっきみたいに、頭、ぽんぽんして。そしたら、すぐ眠れそうだから」
「……それくらいなら、いくらでも」
栞の頭を、優しく撫でる。ツヤのある髪が、指の間をくすぐるように通り抜けていく。
癖のない、柔らかい髪。
触れるたびに、シャンプーの甘い香りがふわりと漂う。
そうしていると、徐々に栞の身体から力が抜けていった。
「ん……気持ちぃ」
やがて、栞は規則正しい寝息を立て始めた。まるで、ここが自分の部屋みたいな無防備さで。
よく天使の寝顔、なんて言うけれど──
栞の寝顔は、そんな陳腐な言葉で形容しきれるものではなかった。
胸の奥がうずっとして、頭を撫でていた手を少しだけ下に滑らせる。
指先が頬に触れた瞬間、
「……りょう」
ぽつりと、栞が呼んだ。
俺は、咄嗟に手を引っ込めた。
……あっぶな。
寝てる時に勝手に触れるのは、さすがにないよな。栞は、俺を信用してくれているんだろうから。
でも。
……栞がこんな顔するからだよ。
俺は一度だけ、栞の頬をぷにっと突き、また頭に手を戻した。すぐに、すり、と擦り寄られる。
まったく、栞には敵わないなぁ。
可愛すぎるんだって。
俺は降参するようにため息をつき、しばらくの間、栞の寝顔を見下ろしながら、静かに頭を撫でていた。
やがて、母さんの声が階下から響いてくる。
「涼っ、栞ちゃーん! お昼用意したから、一緒に食べましょー!」
「あぁ、もうそんな時間なんだ。栞、そろそろ起きて」
「……やめちゃ、やだ」
ぼんやりと瞼を開いた栞は、その指先で、駄々をこねるように俺の手首を掴んだ。
「……っとに。もうちょっとだけだよ」
「んぅ……」
栞は俺の手首を引き寄せ、手の甲に頬擦りをする。すりすりと、何度も。
これは寝惚けているだけ。
そう理解しているはずなのに。
俺はただ、甘えてくる栞に苦笑することしかできなかった。
◆side栞◆
とんとんと、階段を上がって来る水希さんの足音が聞こえて、私はぱちりと目を開いた。
時間切れ、みたいだね。
もうちょっとだけ、涼に甘えていたかったなぁ。
本当はね……最初から起きてたの。
狸寝入りなんてずるい真似、しちゃいけないのに。撫でてくれる手を、ずっと感じていたくて。
涼の手が私の顔に触れかけた時、胸がきゅっとした。つい、名前を呼んで誤魔化したけど。
……気付いて、なかったよね。
起き上がりながら、涼の顔を盗み見る。
優しい顔。
やっぱり、大好き。
「おはよう、栞」
「おはよ、涼。……ごめんね、寝ちゃって」
「いいよ。疲れてたんでしょ?」
「……うん」
涼は、私のことをすごく大切にしてくれてると思う。
でもそれって──
友達だから?
それとも。
女の子として、見てくれてるから?
わかんないよ。
触れてもらって、安心したはずなのに。
また不安になる。
好きになればなるほど、余計に。
「涼、栞ちゃん? 聞こえなかった? お昼ご飯にしましょ」
ドアの向こうから、水希さんが呼ぶ。
「聞こえてるって。今行くよ。ほら、栞も」
「うん」
頷くと、手を引かれる。
胸にわだかまりを残したまま、私は部屋の外へ連れ出された。




