第28話 半裸の出迎えと、ドライヤーの熱
翌朝。
俺はじっとりとした不快感で目を覚ました。
「……あっつ」
寝汗で、寝間着が肌に張り付く。
目を開くと、カーテンの隙間から差し込む日の光が、俺を直撃していた。栞が寒くないようにと、エアコンの設定温度を上げたままにしていたのも、俺には暑かったのかもしれない。
「やべ……今何時だ?」
慌てて壁の時計を確認すると、十時過ぎ。どうやら、少々寝過ぎてしまったらしい。
慌てて起き上がり、ひとまず渇いた喉を潤そうとリビングに降りていくと、母さんが呆れたような視線を投げてきた。
「やーっと起きたのね。夏休みだからって、あんまりぐうたらしてると栞ちゃんに笑われるわよ」
「いいんだよ、別に……。どうせ栞が来るのは午後からなんだから」
母さんに悪態をつきながら、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぎ、一気に飲み干す。冷えた麦茶が胃に落ちていく感覚が、やけにはっきりとわかった。
「さてと──ちょっとシャワー浴びてくるよ。ベタベタで気持ち悪いから」
「あら、あんたも身嗜みに気を使うようになったのね。感心感心」
母さんが、ニヤリと笑う。俺は、また余計なことを言われる前に、リビングから退散した。
一度部屋に戻って下着とハーフパンツを手に取り、浴室へ向かった。
頭から冷たい水を浴びると、不快感と共に、わずかに残っていた眠気も流れていく。
そしてまた、つい栞のことを考えてしまう。
栞は……もう起きてるのかな。
ちゃんと眠れてたらいいんだけど。
俺の頭の中は、栞のことばかりだ。
心配で、心配で──
……って、俺がこんなでどうする。
寄り添うって決めたばっかりなのに。
なら、今日は普通に出迎えよう。
いつも通りに、笑って。
そう決めて、俺は浴室を出た。身体の水気を拭き取って、服を着て、バスタオルを首から下げたまま。
すると、同時にインターホンが鳴った。数秒の後、母さんの大声が響いてくる。
「涼ー? 栞ちゃんが来たわよー! お出迎えしてあげてー!」
「えっ、栞が?! もう?!」
俺は大急ぎで玄関に走った。ドアを開けると、母さんの言う通り、栞が俯き気味に立っていた。
「……お、おはよ、涼。いつもより早いけど、来ちゃ────はわっ?!」
ゆっくりと顔を上げた栞が、俺を見て固まった。大きな瞳を、さらに大きく見開いて、みるみる顔が赤く染まっていく。
「……どう、したの?」
問いかけても、目が合わない。栞の視線は、俺の首よりも下に固定されていた。
その視線を追いかけた俺も、
「……あ」
そんな呟きと共に、思わず固まった。
髪から滴った雫が、ぽたりと床に落ちる。
妙に長い間があった。
「な、なんで……そんな格好なの?」
栞が、両手で顔を覆う。でも、指の隙間からしっかりと瞳が覗いていた。
そうして無言で見つめ合い、数秒が過ぎた。
「……えっーと、その──今、シャワー浴びたところで、暑くて──ご、ごめんっ! すぐ服着てくるからっ!」
ようやく、理解が追いついてきて、俺は慌てて栞に背を向けた。そして、足をもつれさせながら階段を駆け上がり、自室に飛び込む。
背中に、「……もう、涼のばかぁ」という栞の声が聞こえた。
シャワーを浴びたばかりなのに、冷や汗が頬を伝う。それをタオルで乱雑に拭い取り、Tシャツに袖を通す。
……やらかした。
小さな後悔に苛まれるが、せっかく来てくれた栞を放置しておくわけにはいかない。恐る恐る階下に戻ると、栞は上がり框でぽつんと立ったままだった。
俺の足音に、ゆっくりと顔を上げる栞。俺の姿を見て、ほっと息を吐いたのがわかった。
「……ごめん、栞。お見苦しいものを……」
「ううん……見苦しくは、なかったけど──びっくりした……」
「うん、ごめん。これからは、気を付けるから」
「いいよ、気にしなくて。それだけ……急いで出てきてくれたってこと、だよね?」
「まぁ……そう、かな」
「じゃあ、いい。許したげる」
「……ありがと」
俺も胸を撫で下ろすと、栞がそっと歩み寄ってくる。ちょんと俺の手を掴み、上目遣いで目上げてきた。
「改めて……おはよ、涼」
「うん。おはよう、栞」
あぁ、やばいな。
可愛い。
抱きしめたい。
抱きしめて、誰の手も届かないように──
……なんて、そんなのはよくないよな。
だってまだ、そういう関係じゃないし。
誘惑に耐える俺を他所に、栞はさらに身を寄せてきて、すん、と鼻を鳴らす。
「……今日は、あんまり涼の匂いがしないね」
「俺の匂いって……。そりゃ、シャワー浴びたし」
「……そう、だけど」
栞はそう言って、俺の胸元に鼻先を押し付ける。今度は、すぅ、と大きく吸い込んだ。
「……やっぱり、しない」
小さく呟いた声は、寂しそうで──少しだけ、不満そうだった。
「汗臭いより、マシでしょ?」
俺は、栞の指先を握り返した。
「涼なら、ちょっとくらい臭くてもいいのに」
「……なにそれ」
「ふふっ、なんでもないよ」
栞は小さく微笑み、俺も笑い返す。
さっきまでの気まずさが、ふっと解けていった。
「ねぇ、涼。まだ……髪、濡れてるよ」
「えっ。あぁ、うん……これくらい、ほっとけば乾くから」
「ダメだよ。ちゃんと乾かさないと、すぐ傷んじゃうんだから。ほら、ドライヤー持ってきて。乾かしてあげる」
「いやっ、いいって。それくらい自分で──」
「ダーメっ。私がね、してあげたいの。させてくれないなら、帰っちゃうよ?」
今日の栞は、やけに押しが強い。
一歩も引かないって目で見つめてくる。
「……わかったよ。なら、お願いします」
「はぁい、お願いされます」
ふにゃりと笑う栞。
嬉しそうで、楽しそうで。
俺はなにも言えなくなってしまった。
片手にドライヤー、もう片方には栞の手。
リビングでは、母さんが怪訝そうな顔で待っていた。
「……栞ちゃん、いらっしゃい。やけにドタバタしてたみたいだけど、なにかあった?」
「お邪魔します、水希さん。それが聞いてくださいよ。涼ってば、上半身裸で出てきたんですよ」
「ちょっと栞?!」
許してくれて油断していたところで、まさか母さんに暴露されるとは。
母さんのジトッとした目が、俺を射抜いた。
「涼……あんた、バカなの? それで栞ちゃんに嫌われても知らないわよ?」
「だからちゃんと謝ったってば!」
「そうですよ! これくらいで嫌いになったりしません!」
「あら……」
母さんは含み笑いをして、俺と栞の顔を見比べた。
「まっ、そうよねぇ。わかってたけどね。それに、どうせまた……見られる機会もあるでしょうし?」
「……は?」
「み、水希さん……? なにを言って……」
俺と栞は、顔を見合わせて息を呑んだ。すると、いよいよ母さんの笑みも意地の悪いものに変わる。
「そりゃあ、夏だしね。色々あるでしょ、色々。たとえば──」
「「……たとえば?」」
俺たちの声が、綺麗にハモる。
からかわれているだけだと理解しているのに、喉がひりついた。
「……水着、とかね」
「みず、ぎ……?」
栞の顔が、またぽんっと赤くなる。
「おい……母さん」
俺は拍子抜けして、肩をすくめた。
「うふふっ。二人ともなーにを想像してたのかしらねぇ? この時期にプール行くとか、そういう発想が出ないなんて」
けらけらと笑い転げる母さんを尻目に、俺は無言でドライヤーのコンセントを繋いだ。
「……栞。母さんなんて無視してさ、髪、乾かしてよ」
「あっ。そ、そうだったね。うん」
栞がソファに腰を下ろし、俺はその正面に座り込む。栞がもたつきながらドライヤーのスイッチを入れると、頭に温風が吹き付けられた。
栞の指先が、俺の髪を梳く。撫でる。
それが心地良くて、自然と目が細くなる。
「……熱くない?」
「平気。ちょうどいいよ」
栞の指が、俺の髪を持ち上げては乾かしていく。思っていたよりも、ずっと丁寧に。
「涼の髪、初めて触っちゃった」
「……こんなことやらせちゃって、悪いね」
「ううん。こうしてると、落ち着くから」
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
俺は髪に触れる栞の指先を感じながら、そっと目を閉じた。
やがて、俺の髪はさらさらと流れ出す。
「……ふぅん」
ドライヤーの音に紛れるように、母さんの声がする。ニヤケ顔が、容易に想像できた。
でも今は、そんなことはどうでもいい。
この時間が、もう少し続いてほしい。
できれば、誰にも邪魔されずに。
一瞬だけそんなことを考えた俺の後で、栞がくすりと笑った気がした。




