第26話 静かな帰り道と、繋がった未来
「……涼、今日はありがとね」
並んで歩く夜道の途中、栞がぽつりとこぼした。
栞が着替えを済ませた後、俺たちは一緒に家を出てきた。もちろん、栞を家まで送り届けるために。
街灯の明かりが、俺たちの影を地面に落とす。二つの影は寄り添い、腕の先の部分で繋がっていた。
家から外に出た瞬間、栞は俺の手を取った。まるで、そうするのが当たり前みたいに。俺も、なにも言わずにそれを受け入れた。
「別に……お礼を言われるようなことは、なにもしてないよ」
「そんなことないよ。勝手にいなくなったのに探してくれたし、話も聞いてくれたでしょ?」
「それくらいはするって。だって栞は──」
一度は飲み込んだはずの言葉がまた喉まで出かかって、俺は声を詰まらせた。
「……大事な、友達だから」
「涼はそうやってなんでもないように言うけどね……私にはすごく嬉しいことだったんだよ。だから、ありがと」
「……うん」
俺と栞の足音が重なって、静かな夜の住宅街に小さく響く。栞は何度かちらちらと俺の顔を見て、肩を強張らせた。
「……それとね。私、涼に謝らないといけないことがあるの」
「俺……なにかされたっけ?」
栞から謝られる心当たりは、全くなかった。なのに、栞はどこか遠くを見つめ、繋いだ手の力をきゅっと強める。
「私ね……今日を最後に、涼の前から消えようと思ってたの」
「……えっ?! 待って、なんで?」
「だって……怖かったの。涼は──あの時の美紀とは違うって、わかってたのに。理屈じゃなくて、ただ……怖いって思っちゃったの」
「でも……来年も一緒に花火見ようって……」
「うん。消えるのは、もうやめにしたんだ」
「それは……どうして?」
「……涼が、追いかけてきてくれたから。私を、ちゃんと繋ぎ止めてくれたから。それで……怖いなんて気持ち、全部消えちゃった。だけどね、黙っておくのは卑怯だなって思って、謝りたくて」
栞の言葉に、背筋がひやりとした。
俺が告白しようと考えていた裏で、栞が全く逆のことを考えていたなんて。
もし、今日がなにごともなく終わっていたら──
明日から、栞はうちに来なくなって……。
連絡しても、返事すらなくて……?
そんなの、絶対に嫌だ。
俺は咄嗟に、栞の手を強く握り直した。もう二度と、勝手にどこかへ行ってしまわないように。
「……涼。ちょっと痛いよ」
栞がかすかに顔を歪める。
俺は反射的に手を離した。
「ご、ごめん……! つい……」
「……もう。そんなことしなくても、私はここにいるよ。でも……離したら、嫌。しっかり、掴まえててほしい」
その声は、安心しているようにも、甘えているようにも聞こえた。
すぐにまた、手が繋がれる。
「……うん」
俺も、握り返す。
今度は、優しく。絶対に痛くしないように。
華奢な手の感触に、確かな栞の存在を感じた。
俺にとって──特別な栞を。
「……なんか、あの人に感謝しないといけないのかも」
「あの人って……美紀のこと? なんで、感謝?」
「栞を傷付けたことは、正直許せないけどさ……あそこで会わなかったらって思うとね」
彼女と遭遇しなければ、栞が逃げ出すことはなかった。栞が逃げなければ、俺が追いかけることもなかった。
そして、その先に待っていたのは──
なにも知ることなく、栞との関係を失う未来だ。
なんとも複雑な心持ちだが、話を整理するとそういうことになる。栞もそこに考えが至ったのか、はっと息を呑んだ。
「……確かに、そうかも。ねぇ……美紀に、お礼言ったほうがいいのかな?」
「いや、いらないんじゃないかな……」
「そ、そうだよね。うん、そうする」
栞はこくんと頷いた。その顔が妙に真剣で、つい頬が緩む。
「ところでさ……例の件、いつにしようか? 俺はいつでも構わないけど」
「あっ、そうだね。それも決めておかないと、だよね」
じっと俯き、少しだけ考えてから、栞は顔を上げた。
「なるべく早い方がいい……かも。けど、色々考える時間も欲しいし──うーん、そうだなぁ。三日後、くらいにしようかな」
「わかったよ。じゃあ、後で俺から連絡しとくね。それでいいかな?」
「うん。場所とか時間は涼に任せるよ。……ごめんね、面倒事押し付けちゃって」
「ううん、全然。俺から持ってきた話なんだから、これくらいはするよ」
栞はこれから、自分の傷と向き合わなければならない。それは、栞にしかできないことだ。
だからせめて、場を整えるくらいのことはしてあげたい。
「はぁ……。なんか私、涼に迷惑かけっぱなしだなぁ」
しばらくは無言で歩いていた栞が、不意にため息混じりに言った。
「そういうこと言わないの。俺がしたくてしてるんだからさ」
「だってぇ……」
「だってじゃないよ。それにさ、俺も栞に色々してもらってるから」
「色々って……たとえば?」
「たくさん勉強教えてもらったでしょ」
「それは涼に近付くための口実だったんだけど……?」
「理由はなんであれ、だよ。俺は栞に感謝してる。それを少し返してるだけだって」
「……もうっ。涼のそういうところ、本当にすっ──」
言葉に詰まった栞の頬が、暗闇でもわかるくらい赤く染まる。俺は笑みを返して、問い直した。
「す……って、なに?」
「──す。……ず、ずるいっ!」
栞はそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。唇を尖らせて、膨れっ面になった栞は、どう見ても拗ねているようだった。
「えぇ……ずるいって言われても困るんだけど。思ったこと言っただけだし」
「それがずるいのっ! ばかっ」
肩をとんっとぶつけられる。
でも、手だけは離れない。
思えば、今日はずっと手を繋いでいる気がする。この夜道の静けさが、まるで二人だけの世界みたいで。
今はまだ、少し緊張する。
でもいつか、これが普通になったら──
そんなことを考えながら、俺は栞の横顔を見つめていた。
やがて、一軒の家の前で栞が足を止めた。その頃には、栞の頬もしぼんでいた。
「着いたよ。ここが私のおうち」
「ここが栞の家かぁ。思ったよりも普通だね」
「あっ、それ私が言ったやつ! 真似しないでよぉ」
「だって、なんか思い出しちゃって」
「まったくもう……。そんな意地悪な涼には仕返ししちゃうんだから」
栞の指先が、インターホンのボタンを押し込む。すぐに家の中からパタパタと足音が聞こえて、ガチャリと玄関が開いた。
中から出てきたのは、目元が栞そっくりの女性だった。
「ただいま、お母さん」
「おかえりなさい、栞。それから──」
栞のお母さんの目が、俺に向いてピタリと止まる。
「あなたが、涼くんね?」
「あっ、はい……高原涼です。はじめまして……」
いきなりのお母さんとの対面に、喉がひりつく。どうにか挨拶を絞り出すと、ふっと微笑まれた。
「そんなに固くならなくていいのよ、栞から話しは聞いてるから。はじめまして、栞の母の文乃です。栞と仲良くしてくれてありがとね」
「い、いえ……。こちらこそ、栞さんには良くしてもらって……」
「涼? ガチガチだけど、大丈夫そう?」
そう言う栞は、いたずらっぽく笑っていた。
「大丈夫じゃないって……。心の準備くらいさせてよ」
「仕返しするって言ったもーんっ」
文乃さんはくすりと笑うと、俺たちの手元に視線を落とす。
「ふふっ、予想以上に仲良しなのね。栞が楽しそうで私も嬉しいわ」
「「……あ」」
俺と栞の声が、見事に重なった。
慌てて手を引っ込めようとしたが、がっちりと掴まれて離れない。
「もう少しだけ……このままでいて」
栞は俺の手をぎゅっと握ったまま、耳元で囁く。それから文乃さんへ向き直ると、少し照れた顔で言った。
「涼はお友達だもん。だから……これくらい普通なのっ」
「あらあら、そうなのね」
文乃さんは微笑んだまま、小さく肩をすくめた。
「余計なことをいっちゃったかしら。ごめんなさいね」
「本当だよ、まったく……。というわけで、涼。送ってくれて、ありがとね」
「え……あ、うん」
頷くと、ようやくするりと手が解けた。生温い空気が手の平に触れて、なんだか寂しい。
でもそれ以上に、ちゃんと繋がっているという実感が残っていた。
栞も自分の手の平をじっと見て、それから一歩、俺から離れた。わずかに腰を折り、上目遣いで見つめてくる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
「涼くん。また改めて、うちにも遊びに来てちょうだいね」
「は、はい」
先に、文乃さんの姿が家の中に消えた。
続いて、栞も。
玄関が閉まる直前。
ひょこりと栞の顔が覗く。
「涼、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
そして、栞は笑顔でバイバイと手を振って、今度こそ家に入っていった。
たったこれだけのことで、胸の奥がじわりと熱を帯びる。今日という日を、栞が笑って締めくくれたことが、たまらなく嬉しい。
それが当たり前じゃないって、特別なものだって知ってしまったから、尚更。
だから、俺は俺のできることをする。
一人きりになった帰り道。
俺はポケットからスマホを取り出した。
ぎりぎりで繋がった未来を、守るために。




