第23話 過去からの逃走と、救いの抱擁
◆side栞◆
「……しお、り?」
その声を聞いた瞬間、息がうまく吸えなくなった。
思い出したくない記憶が、無理やりこじ開けられるみたいで──
思わず、駆け出していた。
どこに向かうなんて考えもなく、ただ、突き動かされるように。無意識に、人の少ない方へと足が向いた。
走って。
逃げて。
逃げて。
逃げて。
ふと我に返ると、周りには誰もいなかった。
手の中には、涼と一緒に食べていたベビーカステラの紙袋。力一杯握りしめていたのか、ぐしゃぐしゃになっていた。
……涼のこと、置いてきちゃった。
せっかく、楽しい日にするつもりだったのに。綺麗な思い出にして、お別れするつもりだったのに。
なんでこんな、うまくいかないんだろう。
罰、なのかも。
私が、自分勝手なこと考えたから。
そうとしか考えられないよね。
だって──
こんな日に。
あんな場所で。
やがて、頭を直接殴りつけるような爆音と共に、足元にくっきりと影が落ちた。
あーあ、始まっちゃった……。
涼と一緒に、見るはずだったのになぁ。
私はもう走る気力も失って、ぼんやりと視線を前に投げた。そこには、黒い波が花火の光をバラバラに砕く、昏い海があった。
海風に、身体が攫われそうになる。
ふらりと一歩、足が前に出た。
このまま消えてしまえたら……。
楽に、なれるのかな?
なんて……そんなこと、できるわけないのに。
水希さんから借りた大事な浴衣も、返さないといけないし。
「はぁ……なにやってるんだろ」
こんなところで、一人ぼっちで。
寂しくて。
悔しくて。
哀しくて。
苦しくて。
それから、痛くて。
なのに、涙の一滴も流れない。
私はただ、立ち尽くすしかなかった。ジクジクする胸を抱えて、俯いて、耐える。
……大丈夫。
もう少ししたら涼に連絡して、どこかで落ち合って、それから「ごめんね」って笑って誤魔化して。
涼の家に帰ったら、ちゃんと浴衣を返して……。
そしたら……どうするんだっけ。
思考が止まった、その隙間に──
「……やっと、見つけた」
小さな呟きが、入り込んできた。
まるで、幻聴みたいに。
そんなはず、ないのに。
それでも、その声は確かに、私の背中に触れた。
ゆっくりと、近付いてくる気配。
荒い呼吸と、乱れた足音。
そして気が付くと、私は熱い腕の中にしっかりと抱きしめられていた。
「……栞。良かったぁ」
耳元で、安堵するような声。
優しくて、穏やかで。
たぶん、私が今、一番聞きたかった声だった。
でも、でも──
「……うそ」
声が震える。
「……なんで、ここに?」
「うそじゃない……」
さらに腕に力が込められた。
まるで、私をここに繋ぎ止めるように。
これが現実だって、私に教えるように。
「……たくさん、いろんな人に聞いたんだ。栞を、見なかったかって」
涼の言葉が、沁みた。
あっ……ダメ。
そう思う間もなく、視界が歪んだ。それはすぐにあふれ出して、頬を伝う。
「……ばかっ」
なんで──そんなに簡単そうに言うの?
だって涼、人と話すの苦手じゃない。
いきなり勝手にいなくなった私のことなんて、ほっといてもいいはずなのに。
こんなことされたら、私もう──
離れられなくなっちゃう……。
「はぐれたら──」
「……え?」
涼の声も、震えていた。嗚咽にかき消されそうになりながら、絞り出すみたいに言う。
「見つけるって、約束したじゃん。それに……楽しもうって。まだ花火……一緒に見てない、から。栞がいないと、意味ないから」
あ……。
あぁ……。
そうだった。
そうだった、そうだった、そうだった。
私……約束したんだった。
涼は律儀に、それを守ってくれて。
「……涼」
名前を呼びながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、涼の胸に押し付けた。
ほんのりと湿ったシャツから、汗の匂いがする。その匂いを吸い込むと、頭の奥が痺れた。
……涼の、匂い。
好き。
もっと、もっとほしい。
そう思うのと同時に、理解した。
私は、とんだ思い違いをしていたって。
離れられなくなっちゃうんじゃない。
とっくに、離れられなくなってたんだ。
自然と、私からも涼に抱きついていた。
背中に腕を回して、しがみつくみたいに。
離れたくない。
離したくない。
涼がいないと、私は……。
抑えつけていた感情が全部、涙と一緒にあふれ出して──
私は子供みたいに声を上げて、無様に、涼の胸で泣いた。その泣き声をかき消すみたいに、花火の音が響き渡る。
閃光が弾けるその下で。
涼の震える手が、私の髪をそっと撫でた。




