第22話 夜の港と、抱きとめた温もり
まず、栞の手の指先に視線が向いた。
震えてる。
かすかに、どころじゃない。
指先が、壊れたみたいに跳ねている。
俺は咄嗟に、その手を握りしめた。
顔を上げると、栞は大きく目を見開き、血の気の失せた真っ青な顔をしていた。
「……栞っ? どうしたの……?」
俺の声に、反応がない。
目すら、合わない。
焦点が、定まってない。呼吸も、乱れている。
栞は全身を震わせながら、小さく一歩後退った。
「……い、嫌っ! なんで……? なんで、こんな時に……」
うわ言のように呟く栞は、見るからに普通じゃない。
……なにが告白しよう、だ。
自分の浮かれっぷりに、苛立つ。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
それよりも栞のことだ。
栞がいきなりこんな風になった原因は、間違いなく目の前の女の子だろう。俺が栞を背に庇おうとした──
その瞬間。
「……ごめんね、涼」
そんな言葉と共に、栞は俺の手を振りほどき、駆け出した。浴衣姿で、しかも下駄まで履いているとは思えないような速さで。
「栞っ……!」
慌てて追いかけようとすると、後ろから、爪が食い込むほど強く腕を掴まれた。
「待ってくださいっ! お願いだから、待って!」
「離せっ! 栞がっ……!」
藻掻いても、暴れても、俺を引き留めようとする手が解けない。重りを引きずって数歩進んだところで、栞の姿は人の波の隙間に消えて、見えなくなってしまった。
頭に血がのぼって、ガンガンする。俺は振り返り、その怒りを思い切り叩き付けた。
「なんなんだよ、あんたはっ!」
俺の腕にしがみつく女の子は、一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、やはり離れない。
「ごめんなさい……。でも私……栞とどうしても話がしたくて、ひとこと、謝りたくて……! 偶然出会えた今が、最後のチャンスかもって……」
彼女の言っていることは、半分も理解できない。
なのに、なにかがかすかに繋がった。
ずっと引っかかっていた。
自己紹介の時、周囲を拒絶しながらも、かすかに震えていた手。
理由はわからない。
でもたぶん──この人だ。
俺は強く奥歯を噛みしめ、彼女に向き直った。
最優先は、栞を追うこと。そのためには、彼女に離れてもらわないといけない。
「……一つ聞かせて。あんただよな? 栞を、あんな風にしたのは」
怒りが抑えられない。
つい、語気が荒くなる。
それでも彼女は俺から目をそらさず、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……そう、です。私、です。栞にひどいことをして、ずっと後悔してて、謝りたくて。栞には逃げられちゃいましたけど……あなたなら、伝えられますよね?」
「ふざけるなっ! 自分勝手すぎるだろ!」
「そんなのわかってますよっ! 勝手なのも、最低なのも……。ずっと逃げてきたくせに。でも、栞の顔を見たら……」
彼女の瞳から、じわりと涙がにじんだ。
俺は、腕を掴んでいる彼女の指先が、白くなっていることに気付いてしまった。
「結論は後っ! 今は……栞が先だから」
「……もちろんです。一応、私の連絡先だけお渡ししておきますから、その……」
「あぁもうっ! わかったから、早くして」
彼女がスマホを取り出すわずかな時間すらもどかしかった。
「……じゃあ、俺は栞を探しに行くから」
そう吐き捨てると同時に足に力を込め、俺は返事も待たずに雑踏の中に飛び込んだ。
時間をかけすぎた。
栞はどこまで行ってしまったのだろう。
気が焦る。
焦りで、足がもつれそうになる。
けれど、必死で踏みとどまって──
走った。
あてなんて、全くない。
だから、闇雲に足を動かした。
やがて、空から爆音と閃光が振り注いだ。
……始まった。
俺は唇を噛みしめて、決して夜空を見上げなかった。
栞と二人で見るはずだったんだ。
一人でなんて……。
とはいえ、行き当たりばったりにもそろそろ限界が見え始めた。肺は引きつり、心臓は壊れそうなくらいに鼓動している。
……これしか、ないか。
なりふり構っている暇なんて、ないしな。
俺は一度走るのを止め、手近にいた家族連れに目を付けた。
「あ、あのっ……すいませんっ! こっちの方に……浴衣の女の子、走って、きませんでしたかっ?」
突然息も絶え絶えに声をかけてきた俺に、若いご夫婦はぎょっとした顔になった。けれど、俺の必死さが伝わったのか、すぐに頷きが返ってくる。
「ちょっと前に血相変えて駆け抜けてった子のこと……かな? なんか泣いてるみたいだったけど……」
栞が──
泣いてる?!
「たぶんその子です! どっちに行きましたかっ?」
「えっと……確かあっちの方に──」
「ありがとうございます!」
俺は思い切り頭を下げて、指をさされた方向へと再び駆け出した。
それからはもう、手当たり次第だった。少し走っては目撃情報を集めて、また走る。
いつの間にか俺は、会場である臨海公園を離れ、港の方にまで来ていた。
爆音の合間に、波の音が聞こえる。つい、花火の光を映す昏い水面に視線が吸い寄せられて、心臓が早鐘を打つ。
俺は急き立てられるように、走り続けた。
もう周囲には、ほとんど人影は見当たらなくなっていた。
そして、ついに──
俺は、見覚えのある浴衣を視界に捉えた。
まだ距離がある。
おまけに、頼りになる明かりは花火の閃光だけ。
けれど、十分だった。
見間違うはずがない。
力を振り絞って駆け寄ると、栞は海に視線を落としてぽつんと佇んでいた。
「……やっと、見つけた」
言いながら、真っ直ぐ栞に近付く。そして、腕を大きく広げ、力いっぱい、栞を抱きしめた。
「えっ……?」
「……栞。良かったぁ」
腕の中に、ちゃんと栞の温もりがある。
その実感に、じわりと視界が滲んだ。




