第21話 甘いカステラと、過去の呼び声
会場が近付くにつれ車の数は増えていき、いつしかすっかり渋滞にはまっていた。
今回の花火大会の会場になっているのは、港近くの臨海公園。距離的には我が家から車で十五分ほどのはずなのに、すでに倍以上の時間、その場で止まったままだった。
母さんはぐったりとハンドルにもたれかかり、うんざりしたようにため息をついた。
「はぁ……全然動かないわ。こうなるのを見越して早めに出てきたつもりだけど……皆考えることは同じなのねぇ。ここからならそう遠くはないし、いっそ降りて歩いていく? その方が早そうだけど」
「俺は構わないけど……栞は大丈夫? 下駄で歩くの、きつくない?」
「ちょっとくらいなら平気……だと思うよ。それよりも、間に合わない方が私は嫌かなぁ」
「なら歩こうか。母さん、そういうわけだから」
「はいはい、いってらっしゃい。帰りも一応迎えにくるけど……また渋滞かしらねぇ。まぁ近くまで来たら連絡するから」
「ん、ありがと」
「水希さん、ありがとうございます」
「いいのよ。二人とも、楽しんでらっしゃいね」
車から降りると、歩道にも目的地を同じくする人の波ができていた。
「うわぁ……。こっちも人すごっ!」
「うん……そうだね」
こくんと頷きが返ってきた瞬間、栞の手がかすかに震えていることに気が付いて、俺は慌ててしっかりと握り直した。
その震えの意味がなにかを考えるよりも前に。なんとなく、そうしないといけないような気がして。じゃないと、なにかがこぼれ落ちてしまいそうな気がして。
すると、栞は驚いたように目を見開いて、俺を見上げた。
「……涼?」
「あ、ごめん……いきなり。でも、はぐれたら嫌だから」
「そ、そうだね。はぐれたら、困るもんね」
「うん。だからさ……こうしてても、いいかな?」
今更ながらに確かめると、栞は一瞬だけ遠くを見つめ、それから繋いだ手に視線を落とした。
「……いいよ。私も、この方が──」
「そ、そっか……じゃあ、行こうか」
「うん、行こう」
俺たちは、同時に歩き出した。
栞の足元から、小気味良い音がカラコロと響く。
俺はその音に、じっと耳を傾けた。
絶えず、下駄の足音が鳴り続ける。
人混みのざわめきの中、それだけがやけに鮮明に聞こえた。
会場に到着すると、そこには食べ物の屋台がズラリと立ち並び、かなりの賑わいを見せていた。
「さて、花火の開始まではまだ時間もあるし……今のうちに腹ごしらえでもしておく?」
「そうしよっか。でも、こんなに種類があると悩んじゃうね」
あちこちに視線を向けながら、栞は困ったように眉を下げた。
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない。ほら……せっかく二人で来たんだから、分ければ色々食べられるしさ」
「そっか……それもそうだね。じゃあ適当に──あっ、ベビーカステラ食べたいかも」
「いきなり甘いもの?! いや、いいんだけどね」
「だって美味しそうなんだもん。私、ちょっと買ってくるね」
栞はそう言うと、するりと俺の手を離れ、小走りに駆けていく。俺は慌てて、その後を追った。
「ちょ、待って! 一人で行ったらはぐれちゃうって」
「……はぐれたら、見つけてくれる?」
足を止め、振り返った栞は、すごく真剣な顔をしていた。
「そりゃ、当たり前でしょ」
反射的に、そう答えていた。
二人で来ているのに、はぐれてしまったままにしたら、一人で来たのとなにも変わらない。
「でも、はぐれない方がいいに決まってるんだから。ダメだよ、いきなりどっか行ったら」
栞はハッとした顔で俺を見つめ、ぱちりと瞬きをすると、くすりと笑った。
「……はぁい。気を付けるね」
「うん。じゃあ、とりあえず並ぼうか」
列の最後尾に並んで待つこと数分。
ようやく順番が回ってきて、栞は代金と引き換えに、小さな紙袋いっぱいのベビーカステラを受け取る。
甘く焼けた小麦粉の香りが、ふわりと漂った。
「わぁ……まだ温かいよ」
栞は嬉しそうに袋を覗き込み、一つ摘むと、そっと口に運んだ。
次の瞬間、ぱっと表情が緩む。
「……美味しい」
やけに、幸せそうな顔だった。
「そんな顔するほど?」
「するよっ。だって外はちょっとサクッとしてるし、中はふわふわなんだもん。涼も食べたらわかるよ」
そう言って、俺に紙袋を差し出しかけて──ふと、動きを止める。
あれ……。
くれないのかな?
そう思いかけたところで、栞は再び袋に手を入れ、また一つ指先で摘んだ。
「はい」
「……え?」
「せっかくだから。あーん」
さらっと言うくせに、栞は耳まで真っ赤だった。
「いやっ、え、ちょっと待って」
そんなの、心の準備ができていない。なのに、栞はずいっと俺に詰め寄ると、ベビーカステラを口元に近付けてくる。
「ほら、冷めちゃうから……早く」
周囲の喧騒が、急に遠くなる。
視界いっぱいに、栞の顔がある。
近くで見ると、ますます可愛い。
睫毛が長くて、瞳はぱっちりで。その真ん中に、俺の顔が映り込んでいた。
俺は観念して、少し身をかがめる。ふわりと、甘い香りが強くなった。
柔らかい生地が、唇に触れる。そして、ころんと口の中に入ってきた。
「……どう?」
栞は、どこか不安そうに小首を傾げて俺を見上げていた。
「うん……美味しい」
「でしょ?」
安心したみたいに、くしゃっと笑う栞。
正直、味なんてさっぱりわからなかった。
でも、その笑顔がやけに眩しくて、他の音が全部どこかへ消えてしまう。
ここには、俺と栞しかいない。
そんな気がした。
解けていた手を繋ぎ直そうと手を伸ばすと──
「……しお、り?」
不意に、俺たちの世界に横槍が入ってきた。
俺の声じゃない。けれど、栞を名前で呼ぶ声。
思わず視線を向けると、そこには俺の知らない女の子が一人、立っていた。
「……な、なんで」
今度は、栞の声。
その声は、さっきまでの栞のものと同じとは思えず、背中に冷や汗が伝った。




