第2話 拒絶と、震える手
桜の樹がゆっくりと花びらを散らしながら、その枝に少しずつ新緑が芽吹き始めた頃。
俺はこの柊陵高校へ入学した。これまでの自分と決別し、新たな一歩を踏み出せたら──いいなぁ……という淡い希望を胸に。
その希望は儚くも散ることになるのだが、それはそれとして──
この日俺は、これまでの生涯で一番の衝撃を受けることになる。
入学式の最中、新入生代表として壇上へ上がったのが黒羽さんだった。その後ろ姿は堂々としていて、自信に満ちあふれているように俺には見えた。
朗々と、澄んだ声を響かせて読み上げられる、お手本のような答辞。
新入生代表を務めるということは、入試をトップの成績で通過したということだ。ならばその自信も頷けると、俺はどこか遠い世界の住人を見るような目で眺めていた。
事件が起きたのはその後──教室へと戻り、最初のHRの時間だった。
「みなさん、入学おめでとー! 私がこのクラスを受け持つことになった連城茜です。これから一年間よろしくねっ! とりあえず私のことは後にして、みんなのことを教えてもらおうかなーと──」
やたらとテンションの高い先生の登場で、俺の決意は風前の灯だった。これは、自己紹介タイムが始まる流れ。俺の背中を、冷や汗が流れた。人前で話すのは、俺が最も苦手とすることの一つだ。
そんな中、しゅびっと元気よく手を上げた一人の女子に視線が集まる。
「はいはーいっ! きっと誰もやりたがらないだろうから、あたし最初にやりまーす!」
「おっと……なかなか自己主張の強い子ね。えーっと、あなたは……」
「楓彩香でーす! よろしくぅっ! 趣味は身体を動かすこととー、遊ぶことかなっ? みんなっ、これからたくさん遊ぼーねっ?」
「こらこら、勝手に始めるんじゃないわよ。もうやってしまったものはしょうがないけど」
「えへへっ、ごめんなさーいっ!」
全く悪びれた様子のない楓さんに、初めて教室内に笑いが起きた。
「あとー、そこであたしを睨んでるのが柊木遥だよ! ぶっきらぼうだけど悪いやつじゃないから、仲良くしてあげてねっ! ちなみに、あたしの幼馴染で彼氏でーすっ!」
「おまっ……! 勝手に人の紹介まですんなっての!」
……なるほど。
これが陽キャというやつか。
楓さんと柊木くんが騒ぎ始めたところで、連城先生がパンパンと手を叩いた。
「はいはい、そこまでっ! まったく、とんでもない子が入ってきたもんね……。まぁいいわ。これでみんなも緊張が解けたでしょうし、ここからは出席番号順でいきましょうか」
仕切り直しを経て、本格的に自己紹介が始まった。最初に和やかな雰囲気ができあがっていたおかげか誰も気負うことなく、その場で立ち上がり自己紹介を済ませていく。
少なくとも、黒羽さんの順番が回ってくるまではそうだった。
新入生代表ということもあって、みんなの期待は高まっていたように思う。けれど、それを全て吹き飛ばす言葉が、黒羽さんの口から飛び出した。
「黒羽栞です。最初に言っておきますが、私はみなさんと仲良くするつもりはありません。なのでみなさんも私に関わらないでください」
場の空気が凍り付いた瞬間だった。
自己紹介といえば、これから良好な関係を築くためのもの。それを黒羽さんは、真っ向から叩き折った。
誰もが、唖然とした顔で黒羽さんを見つめていた。俺もそのうちの一人だった。
ただ一つ、俺には気付いたことがあった。こんな俺でも、人を観察することには長けているという自負がある。
真っ直ぐに立つ黒羽さんの手が、まるでなにかに耐えるようにかすかに震えていた。
その震えを気にした人間は、たぶん、クラスで俺以外にいなかった。みんな、黒羽さんの言葉に固まっていたから。俺だけが──その手から目が離せなかった。
やがて黒羽さんは、小さく息を吐き、再び椅子に腰を下ろした。
それからはもう、地獄のような時間だった。黒羽さんの雰囲気に当てられ、噛んだり、しどろもどろになったり。
俺はその空気に乗じて、さらりと流すように自己紹介を終わらせた。その時には、胸に希望を抱いていたことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。
かくして、俺は中学時代までと同じようにボッチ街道真っしぐらとなり、黒羽さんもまた、クラス内で触れてはならない人物として扱われることとなった。
***
そんな俺たちが接点を持つようになったのは、それから一月半が経った頃。
俺はすっかり、放課後の図書室通いが習慣化していた。授業中に出された課題を片付けたり、予習復習をしたり。そんな風にして時間を潰していた時のことだった。
その日はちょうど、ちょっとばかり苦手意識を持つ数学の課題とにらめっこをしていた。書いては消し、消しては書いて。
そんなことをしていると──
「……高原くん。途中の式、符号を書き間違えたまま計算を進めてるわよ」
肩越しに背後から腕が伸びてきて、俺のノートを指さした。
「……ふぇっ?!」
振り返った俺の口から、間の抜けた声がもれた。
それは、突然声をかけられたからじゃない。その主が、予想外の人物だったからだ。
目元を完全に覆い隠す、長い前髪。
「えっ? えっ? く、黒羽さん……なんで?」
「だって図書委員だもの。高原くんだって知ってるでしょ?」
黒羽さんが図書委員であることは、俺も当然知っている。クラスの役割決めで選ばれたことも、週に一度の頻度でカウンターの奥に座り、静かに本を読んでいることも。
けれど、俺の聞きたかったのはそういうことじゃない。
「いやっ、そうじゃなくて……。なんで黒羽さんが俺に……?」
「さぁ、なんでかしら? う〜ん、気まぐれ……そう、気まぐれよ。私だってそういう気分の時くらいあるのよ、たぶん」
「気まぐれって……。俺、黒羽さんが誰かと話してるところなんて見たことないけど?」
「い、いいじゃない、別に。それにそこは高原君だって同じでしょう?」
「そうだけど……」
「クラスでも浮いて──いえ、沈んでると言ったほうがいいかしら?」
「……その言い方は、ひどくない?」
いや、その通りといえばその通りなんだけどさぁ。
でも、いきなり話しかけてきたくせに、辛辣すぎる。
「まぁそんなことはどうでもいいじゃない。それよりも、教えてあげるから隣失礼するわよ」
「え、あ……うん」
どうやら俺に拒否権はないらしい。黒羽さんは丁寧にスカートの裾を折り、俺の左隣の椅子に腰を下ろした。座る直前、黒羽さんの手が肩に触れたのは、俺の気のせいだろうか。
黒羽さんは、静かに俺の教科書を自分の方へ引き寄せた。そして、問答無用で始まるマンツーマンの授業。
とはいえ、さすが首席入学なだけのことはあり、黒羽さんの話はとてもわかりやすい。一瞬で俺が躓いていた箇所を見抜き、的確な説明をしてくれる。
さらに、頼んでもいないのに他の問題にまで解説は及び──
そんなことをしているうちに、すっかりと陽は傾き、周囲は茜色に染まっていた。
「……そろそろ下校時間ね。私、この後締め作業があるから、高原くんは先に帰ったら?」
「あー、もうそんな時間なんだ。うん、そうさせてもらおうかな。なんだか完全にお世話になっちゃったね……ありがと、黒羽さん」
「べ、別にお礼なんていらないわよ。それよりも、今回は特別なんだから、くれぐれも教室では話しかけないでね。それじゃ、さようなら」
それだけ言うと、黒羽さんはさっさと席を立ち、カウンターの奥へと入っていった。
「……わかってるよ。でも、教室じゃないなら──」
俺は黒羽さんの背中に向かって、届かない声量で呟いた。
黒羽さんがあの時必死で築いた孤高の壁。それを壊す権利は、俺にはない。
ただ、その背中が少しだけ寂しそうに見えた。入学式の日の、震えていた手を思い出した。
だから──
図書室を出る間際に、俺にしては珍しく声を張る。
「黒羽さん、また明日」
これくらいなら、構わないだろう。
会話はしなくても、明日も顔を合わせることにはなるのだから。
返事はなかった。はなから期待はしていなかったから、別にいい。黒羽さんの肩が、微かにピクリと反応したのを見られただけで満足だ。
一人学校を出て駅へと向かう途中、俺はふと足を止めた。
そういえば──
俺、黒羽さんとは普通に話せてたな……。
いつもなら、誰かに話しかけられるだけでパニックになるのに。
俺と黒羽さんの波長が合うのか、それとも、あの黒羽さんに話しかけられた衝撃が強すぎて、パニックになる暇がなかったのか。
理由は、自分でもわからない。
ただ──
『また明日』と口にした瞬間。
ほんの少しだけ、けれど確かに、なにかが変わった気がした。




