第1話 二人きりの、図書室の隅
「高原くん……みーつけた」
不意に、背後から直接鼓膜に触れられたような、密やかな声が俺を呼んだ。ビクリと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
「やっぱり今日もここにいたのね」
窓から差し込む、少しだけ西に傾いた陽射しが、彼女の艷やかな髪を照らしていた。
黒羽栞。
俺と同じ1年5組のクラスメイトであり、今の俺がまともに言葉を交わせる唯一の相手。
「……なんだ、黒羽さんかぁ。脅かさないでよ」
「私以外にこんなことする人いないでしょ。高原くんがビクビクしすぎなだけよ」
「うわっ、相変わらず容赦ないなぁ。そうかもしれないけどさ。で、黒羽さんは今日も当番?」
「ええ。面倒だけれど、仕事だから仕方がないわよね」
黒羽さんはため息交じりにそう言うと、迷うことなく俺の隣の椅子を引いた。
この広い空間にいるのは俺と黒羽さんだけ。空席なんて他にいくらでもあるのに、パーソナルスペースに入り込むように、いつも黒羽さんは俺の隣の席を選ぶ。
「ここ、いいかしら?」
「え、あぁ、うん。もちろん」
とん、と鞄を置く音が響く。黒羽さんは座る直前、少しだけ椅子を俺に寄せた。机の下でスカートの裾が揺れ、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。
シャンプーだろうか、柔軟剤だろうか。図書室の乾いた匂いとはまったく違う。
黒羽さんが座ると、肩が微かに触れ合う。避けようと思えばいくらでも避けられるはずなのに、黒羽さんはその位置から動こうとしない。
さりげなく引けば、後を追われる。
彼女の吐き出す熱い息が耳たぶに触れた気がして、俺は思わず身体を固くした。
俺は他人と話すのが苦手だ。
放課後は教室の喧騒が息苦しくて、逃げ込むようにここ──校舎の隅にひっそりと設けられた図書室に来るようになったのは、入学直後からだった。
閲覧席の最奥、一番人目につきにくい場所。それが、今の俺の居場所だった。
誰かと隣り合わせになれば、緊張する。
なのに、他の誰かを相手にする時とは違って、今の俺はどこか落ち着いている。黒羽さんと言葉を交わすのは、これが初めてというわけではないから。
黒羽さんは、教室では俺と同じように、誰とも接点を持たない。そして、前髪を異様に長く伸ばし、顔の上半分を完全に覆い隠している。
だから、俺たちは一度だって目が合ったことがない。なのに、その分厚い前髪のカーテンの奥から、俺をじっと観察するような視線を感じるのは気のせいじゃないと思う。
「……高原くんは、今日も勉強?」
「まぁね、これくらいしかやることがないからさ。家だとサボっちゃいそうだし」
「ふぅん、相変わらず真面目なのね。なら、私は本でも読んでいるから、わからないところがあったら、いつでも声かけてちょうだい」
黒羽さんは口元だけでクスリと笑うと、鞄から読みかけの文庫本を取り出した。背筋を伸ばし、白く細い指先でページを捲る姿は、どこか洗練されている。
長い前髪の隙間から覗く形の良い鼻筋と、桜色の唇。素顔を見せれば、きっと男子たちがほうってはおかないほど整った顔立ちな気がするのに。
……もったいないよなぁ。
なんて、そんなこと思うのは俺のエゴだろうか。
だって、そもそも黒羽さんは──
「……どうかした?」
いつの間にかじっと見つめていた俺に気が付いたのか、黒羽さんは本を読む手を止めて、長い前髪を揺らした。
「い、いや……なんでもないよ」
「そう? ならいいけど」
黒羽さんは興味なさげに呟き、再び文庫本に視線を落とす。俺も慌てて教科書とノートに向き直った。
それからは、ひたすら無言の時間が流れた。
さらりと、黒羽さんがページを捲る音。
カリカリと、俺がペンを走らせる音。
図書室の静寂の中に、二つの音だけが溶け合っていく。
普段の俺なら、異性どころか他人がすぐ隣にいれば緊張してしょうがないはずなのに、なぜか黒羽さんと共有するこの沈黙だけは、不思議と心地よく感じる。
ふと俺は、黒羽さんの横顔を盗み見る。長い前髪に遮られ、どんな目をしているのかはわからなかったが、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
けれど、俺たちは最初からこうだったわけではない。
むしろ、氷のように冷たい拒絶から始まった。
全てが動き出したのは──約二ヶ月前。
高校入学初日。
黒羽さんがクラス全員に対して、
『私はみなさんと仲良くするつもりはありません。なのでみなさんも私に関わらないでください』
そう宣告した瞬間だった。
そのクラス全員に絶縁を言い渡した彼女が、どういうわけか、毎日、放課後にだけ俺の隣に座りに来る。
まるで──俺の日常を侵食しようとするみたいに。




