第18話 浴衣の約束と、膨らむ期待
あの日から、栞は毎日俺の家に来ている。
家同士が思っていた以上に近いとわかって、二日目からは電車ではなく徒歩に切り替えたらしい。
昼過ぎ、インターホンが鳴る。玄関を開けると、そこには夏の日差しを背にした栞が立っていた。
「いらっしゃい、栞」
「お邪魔します」
短いやり取りを交わして、栞が丁寧に靴を揃えるのを待ってから、一緒にリビングに向かう。
冷房の効いた空気の中で、栞は小さく息を吐いて、ごく自然に俺の左隣に腰を下ろした。
ちょん、と肩が触れ合う。
以前の栞なら、触れた瞬間に離れていた。けれど、今日は離れない。これが当たり前だというように、平然と筆記用具を取り出し始めた。
日ごとに、距離が近くなっている。
そう感じるのは、たぶん気のせいじゃない。
そんな様子を見て、キッチンから顔を出した母さんが、ふっと目を細めた。
「本当、二人は仲良しねぇ。栞ちゃんが遊びに来てくれるようになって、家の中が華やかになったわぁ」
「あ、や……すいません、こんな連日。ご迷惑、じゃ……」
「全然。むしろ助かってるくらいよ」
母さんは笑いながら、よく冷えた麦茶のグラスを栞の前に置く。
「だって涼ったら、なにも予定がないとどこまでもだらけるんだもの。栞ちゃんが来なかったら、いったい何時まで寝ていることやら……」
「母さんっ! 余計なこと言わなくていいからっ!」
「はいはい、ごめんごめん」
雑に俺をあしらいながらも、母さんは楽しそうだ。
そして、今日もまた約束通りに課題に取りかかろうとした、その時だった。
「あ、そうだ」
母さんが、さも今思い出したと言わんばかりに手を打つ。
「今度の花火大会なんだけど──」
母さんはニヤリと口元を緩めると、まず俺を一瞥してから、栞へと視線を向けた。
「栞ちゃん、浴衣はどうするの?」
「浴衣……ですか?」
一瞬、栞がきょとんとする。
「ほら、せっかく花火見に行くんだし、そういう雰囲気作りも大切じゃない」
「でも……浴衣なんて。小さい頃のならどこかにあるかもしれませんけど、今着られそうなのは持ってないですよ?」
「そっかそっか。それは好都合ね」
そう言うと、母さんは少し身を乗り出した。
「昨日タンスの整理をしていて偶然見つけちゃったのよ。私が昔着てた浴衣なんだけど、物は悪くなってなかったし、サイズもたぶん大丈夫そうなのよねぇ。というわけで、栞ちゃん。よかったらそれ、着てみない?」
……偶然、ね。
そんなの絶対嘘だろ。
どう考えても、花火大会の話が出てから狙って探したに決まってる。
とはいえ、俺はあえて何も口を挟まなかった。
「え……そんな大事なもの。……いいんですか?」
「いいに決まってるじゃない。どうせタンスの肥やしになってただけなんだもの。栞ちゃんが着てくれるなら、そんな嬉しいことはないわ。あぁ、もちろんちゃんと下駄と巾着もあるから安心してくれていいのよ」
「そこまで……。えっと、えっと、本当にいいのかなぁ?」
栞は困ったような顔をして、ちらりと俺を見る。
その視線は、不安というよりも、確かめるみたいで。背中を押してほしい、そう言われている気がした。
栞の答えは、もう出ているのだろう。必要なのは、最後の一押し。
「母さんがここまで言ってるんだから、甘えていいんじゃないかな。それに──」
言いかけて、少しだけ言葉に詰まる。
花火大会だから。
せっかくの機会だから。
そんな都合のいい理屈を並べることだってできた。
でも──
「……俺も、栞の浴衣姿、見てみたいから」
その全てを押しのけて、本音が勝手にもれ出していた。
栞の瞳がパチリと瞬き、大きく開かれた。
「えへっ……そっか。涼がそう言うなら、仕方ないね」
頬をほんのりと赤く染めながら、栞が笑う。
「じゃあ、水希さん……お借りしても、いいですか?」
「そうこなくっちゃ! すぐに着られるように用意しておくわね。当日の着付けも任せてちょうだい!」
「はい、よろしくお願いします」
「あ、でもね」
声を弾ませる栞を制して、母さんがふと思い出したように言う。
「残念ながら、涼の分の浴衣はないのよねぇ」
「……えっ」
小さく声を漏らしたのは、俺──ではなく、栞だった。
「そう、なんですね……」
一瞬、ほんの一瞬だけ、栞の表情がしょんぼりと曇る。
俺はつい、苦笑した。
「いや、俺は別にいいよ。普通の服で行くから」
「……そっかぁ」
自分を納得させるように頷きながらも、栞の声は名残惜しそうで。それを嬉しく思いながらも、俺の頭の中はもう別のことでいっぱいだった。
浴衣姿の栞。
夜空の下、花火の光に照らされる栞の姿。
想像するだけで、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
「涼、鼻の下伸びてるけど? 栞ちゃんの浴衣姿、妄想してるんでしょ、このスケベ」
母さんがクスリと笑い、俺の顔を指さす。つられた栞にまで凝視されて、俺は思わず両手で顔を覆った。
「は? の、伸びてないし!」
「でも……見たいって、言ってくれたよね?」
「それはまぁ……栞に浴衣とか、絶対似合うだろうしさ」
「なら、ちょっとくらい鼻の下伸ばしてても、いいよ? むしろ、それくらいの方が、私は嬉しいかも……」
「……栞」
「はぁ……これは本番が楽しみねぇ」
本番。
締めくくるように呟いた母さんの言葉が、やけに強く耳に残った。
花火大会は、明々後日。
きっと、ただの夏の思い出を彩るイベントでは終わらない。そんな予感が、期待が、俺の中で静かに膨らんでいく。
隣を見ると、栞はまだどこか照れたような顔で、グラスを両手で包んでいた。その仕草を見るだけで、俺の心臓はどうしようもなく弾んでいた。




