第17話 重なる指先、新たな予定
ペンはコロコロと転がり、俺の膝で一度跳ねてから、フローリングの床へと落ちた。
俺と栞の、拳二つ分ほどの隙間に。
慌てて拾おうとして伸ばした手の指先に、柔らかい感触が触れた。視線を落とすと、俺の手の上に、栞の華奢な手が重なっていた。
「「……あ」」
同時に、声が漏れた。
自然と、視線が交差する。
絡め取られるみたいに、そらせない。
一拍遅れて、心臓が跳ねた。
急激に、体温が上がった気がした。
震えそうになる指をどうにか動かしてペンを掴んだが、栞は手をどかさない。それどころか、俺の手の甲に、すり、と指先を滑らせた。
「なんか……涼の手、あったかいね」
「そういう栞は……ちょっと冷たくなってるじゃん。もしかして……寒い?」
「ううん……。平気だよ」
「……そっか」
また、沈黙。
心の底に、残念だと思っている自分がいることに気が付いて、思わず自問する。
……もし、栞が寒いと言っていたら、俺はどうしていたんだ?
それを理由に、抱きしめていたかもしれない。
エアコンの設定温度を上げれば済む話なのに。
なら、栞が俺の手に触れ続けている理由はなんだ?
わからない。
ただ──
ひんやりとした栞の手が、俺から熱を奪っていく。その感覚が、たまらなく心地良い。
もう少し、あと少しだけ。
そう願わずにはいられなかった。
けれど、その願いはすぐに掻き消えることになる。
玄関から、ガチャンと音が響いてきた。ドアの開く音、そして、閉まる音。続いて、パタパタとスリッパを鳴らす足音が近付いてくる。
俺は、反射的に手を栞の指先の下から引き抜いた。ペンを持ち直し、さも真面目に勉強していましたというポーズが完成すると同時に、エコバッグを手に提げた母さんがリビングに入ってくる。
「おかえり、母さん」
「おかえりなさい」
「ふぅっ……暑かったぁ。ただいま、二人とも?」
そんな言葉と共に、母さんの視線が俺と栞に向いて、止まる。そして、意味ありげに目を細めた。
「……なに?」
「いやぁ、べっつにぃ? ただ……すっごく仲良しなのね、って思っただけよ」
「は?」
母さんの言っていることの意味が、理解できない。栞とは、しっかり友達としての距離を取り戻しているはずなのに。
「だって、そんな狭いところに二人並んじゃってぇ。パッと見、恋人同士って言われても不思議じゃないわよ?」
「え、あ、これはっ……。いつもこんな感じでやってたからでっ。……ごめん栞。俺、向こう側に──」
「……別に、いいよ」
栞は耳まで赤くして俯き、腰を浮かせかけた俺の服の裾を、きゅっと摘んだ。
栞の手は、俺のと比べればひどく小さい。振りほどこうと思えば、いくらでもできる。なのに、俺はまるで金縛りにあったように、動けなかった。
「これが……私たちの普通、なんでしょ? なら、このままで──このままが、いい。こっちの方が、すぐ教えてあげられるもん」
「だってさ、涼。栞ちゃんはこう言ってるけど、あんたはどうするの?」
「……わかったよ」
二対一。俺には、最初から勝ち目はなかったらしい。大人しく元の位置に腰を落ち着けると、栞が嬉しそうな笑顔を向けてきた。
こんな顔されたら、嫌とは言えないよな……。
「ふぅん……なるほどね」
そんな呟きと共に、母さんは俺と栞を交互に見やる。その視線はからかい半分、探るような真剣さ半分で、妙に落ち着かない。
「……な、なんだよ?」
「いやぁ、一応ちゃんと勉強してたのねって思って」
そう言いながら、母さんはローテーブルの上に広げられたノートとテキストを一瞥した。
「そりゃまぁ……栞が来たのはそのためだし。ねぇ栞?」
「うん。なるべく早めに終わらせようねって、約束してますから」
「そっかそっか、それは感心ね。でも──」
母さんは、そこでわざとらしく一拍置く。そして、エコバッグの中を漁り、お菓子の包みを取り出した。
「あんまり最初から根詰めすぎても良くないと思うのよね。おやつ買ってきたから、一旦休憩にしましょ。飲み物、なにがいい?」
「……俺、コーヒー」
ここは、素直に従うのが得策だろう。
じゃないと、またイジられそうだ。
「栞はどうする?」
「えっと……じゃあ私もコーヒーで」
「はいはい、りょーかい。準備するからちょっと待ってて」
「あっ! 私、お手伝いします」
栞はパッと立ち上がると、母さんと一緒にキッチンに行ってしまった。今まで栞がいた場所に、エアコンが吹き出す冷えた風が入り込み、なんだか無性に寂しい。
その気持ちとは反対に、キッチンからは楽しそうな声が響いてくる。
「ありがとう、栞ちゃん。気が利くのね」
「いえ、そんな……。じっとしてるのが申し訳なかっただけですよ」
「はぁ……栞ちゃんいい子だわぁ。うちにも女の子がいたらこんな感じだったのかしらねぇ。いっそ、うちの子になっちゃわない?」
「えぇっ?! それはその……あぅ」
そんな会話を聞いていると、ふと、疑問が浮かんできた。
栞はなんで「私に関わらないでください」なんて言って、周囲との間に壁を作ったんだろう?
見た感じ、栞は俺と違ってコミュ障というわけではなさそうだ。初対面の母さんと、こうして打ち解けているわけだし。
なにか、人を遠ざけたい理由があるのか。
それなら、俺とのことは矛盾しているのではないか。
考えても、答えは出なかった。
直接そこに踏み込む勇気も、俺にはない。
やがて、ダイニングテーブルには、コーヒーの入ったマグカップが三つと、お菓子が盛られた皿が並べられた。三人で席に着くと、母さんがタイミングを見計らったように切り出す。
「ところで二人とも。勉強するのは偉いんだけど、それ以外に遊びに行く予定なんかはないの?」
「いや、今のところまったく」
「まずは一緒に課題を終わらせるってことしか決めてないですね」
「そんなの絶対ダメよっ!」
母さんは興奮したように、手に持ったマグカップをテーブルに叩きつけた。
「せっかくの夏休みに、家で勉強だけじゃもったいないじゃない」
「……と言われてもねぇ」
決めていないものは決めていないのだ。そもそも、俺には友達と遊びに行くプランというものがない。
俺と栞が困ったように顔を見合わせると、母さんはどこか得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「そんな二人に耳寄りな情報を持ってきたの。次の土曜日なんだけどね、花火大会があるらしいのよね」
「あー……そういえば毎年やってるよね。この時期だったっけ」
「ありましたね、確かに」
「で──どう? 興味ない?」
正直に言えば、行きたい。
花火大会に、栞と。
初めてできた、友人と。
初めてできた、好きな女の子と。
けれど、栞のことを思うと俺からは答えが出せなかった。
横目で反応を覗うと、栞は頬をほんのり赤く染め、小さく頷いていた。
「行って、みたいです。涼……一緒に、行ってくれる?」
「……人、多そうだけどいいの?」
「そんなの、わかって言ってるよ。私ね……涼と花火、見に行きたいの」
「そういうことなら……うん、行こうか」
栞がいいと言うなら、俺に異存はない。むしろ、願ったり叶ったりだ。
「……やった!」
栞がはにかむように笑い、俺もつられて頬が緩む。
こうして、俺たちの夏休みの予定に、花火大会が加わった。




